*2001年3月18日メッセージとディボーションノート*

 宣教についての三つの「?」 使徒言行録14:8〜20

はじめに
今日私たちは神様の導きに応えて、ケニヤへの宣教の働きを始めようとしています。赴く者も送り出す者も共に福音を伝えるとはどういうことなのかをよく知っておくべきです。また海外へは送り出す立場の者であっても、日常生活の中では誰でもユアチャーチの宣教師なのです。今日与えられている聖書箇所は私たちにゆだねられている宣教がどのようなものであるかを教えてくれています。

A  しるしも不思議も奇跡も伴わない宣教?

1)イエス様の場合(ルカ42:16-21)

2)使徒たちの場合(8-10)

3)私たちの場合

B  なぜしるし、不思議、奇跡に反対する人がいるのか?(11-13)

1)理解できない

2)ニセモノを見たことがある

3)悪い前例がある

C  どうしたら危険を避けながら「力の伝道」を進められるか?

1)宣教する者の正しい態度(14-15)

2)その人々の文化や背景に対する尊敬、思いやり(16-18)

3)困難の中で神様があらわされる奇跡を期待する(19-20)

メッセージのポイント
宣教とはただ力を見せつけて感心させたり恐れさせたりすることではありませんし、また救いの教理を教え込むことでもありません。それはイエス様の宣教でも、使徒たちの宣教でも明らかなように分けることのできないものです。「福音」はそれ自体、目に見えない束縛から(魂の解放)も、見える束縛から(身体の解放)も解放する力を持っているのです。ただその運用についてはコリントの教会でも混乱があったように、今でも行き過ぎや、逸脱、つまづきが後を絶えないので、「力を伴う伝道」から「力を伴う」の部分を棚上げしてしまった人々もいます。私たちは主からの知恵によって逸脱の危険を避けながらも大胆に力を伴う伝道を推し進めていきたいと思います。

ミニチャーチのためのヒント
1)なぜしるし、不思議、奇跡を否定したり、無視したりする人がいるのですか?
2)どうしたら危険を避けながらも大胆に力を伴う伝道を推し進めていけますか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

3/19(月) 使徒言行録14:8-10/ルカ42:16-21

福音を積極的に広めるとき、しるしと不思議は常に重要な要素です。救いとは、霊的なものに限られてはいません。特に病気が私たちの霊的な状態に影響するとき、身体的な回復は救いの一部なのです。福音のメッセージが真実なのかどうかと迷っている人にとって、祈りをとおして身体的な癒しがしるしとして現されることは重要です。それは、神が生きておられ、現実であり、唯一の真の神であり、人々のことをケアしてくださる方であることを示すからです。イエス様は、父から与えられた働きである宣教を続ける権威を私たちに与えて下さいました。しるしや奇跡をともなうミニストリーを行った使徒達が私たちに教えていることは、イエス様が与えて下さった権威は現実のものであり、実際にうまく使えるということです!

3/20 (火) 使徒言行録14:11-13/歴代誌上16:23-24

力の伝道というのは神様の「力」を借りて伝道することだと思います。いつでも伝道は聖霊の導きがないと出来ないけれど、力の伝道は神様の超自然的なご介入を期待する事だと思います。それは伝道しようとする側に奇跡が起こる場合、たとえばこの聖書の個所にパウロにおこったよおうに死んだとおもわれるほどの思いをしても証しつずける事が出来たり、又導かれる側に不思議なしるしが示される場合も有ります。このケースの方が多いのはやはり神様のあわれみではないでしょうか。どちらにせよ、伝道する私たちに期待する気持ち、そしてそのための祈りなしでは何も起こりません。神様と私たちの共同作業なのです。神様が私たちを通して働かれるという事は本当に私たちにとって素晴らしい特権です。



3/21(水)
使徒言行録14:14-15/出エジプト記32:1-6

神さまの働きを私たちが担う時、その源となるものは神さまが与えて下さる賜物や知恵、力であり、自分自身の能力でないことは百も承知です。無力な私たちは全能の神さまの器として用いられているだけなのです。分かっていても、人に賞賛されたりすると、いかにも自分の能力によって成し遂げたような錯覚に陥ってしまうのが人間の弱みです。初めは純粋に「神さまのため」にはたらいていたのがいつの間にか「自分が人から偉いと思われるため」に目的が変化してしまう。神さまが最も悲しまれることです。人から評価されることは重要ではありますが、絶対ではありません。最も大切なのは神さまからの評価であり、それに目を向けるべきです。神さまは人間のはたらきはを必ず見ていて下さり、正当に評価してくれます。それをしっかり受け取っていれば、人からの賞賛に心を奪われる危険性も無くなるでしょう。

3/22 (木) 使徒言行録14:16-18/1コリント9:19-23

今アフガニスタンで仏教遺跡がタリバンというイスラム過激派によって破壊されているそうです。あなたは「クリスチャンには関係ない」なんて思っていませんか?イスラム教では偶像礼拝を禁じているからだそうですが、聖書も偶像礼拝を禁じています。もし偶像礼拝の禁止が仏像の破壊を意味するなら、日本のクリスチャンはタリバン以上の過激派にならなければなりません。「私たちは真の神様を知っている」という思いが時々クリスチャンを傲慢な者にしてしまいます。そしていわゆる「キリスト教文化」による異文化の征服がなされてきました。でもそれは真のクリスチャンのする事ではないと思います。なぜなら他宗教の文化であっても神様の支配の外にあったものではなく、恵みのうちに存在してきたものだからです。偶像の問題は偶像そのものというより、偶像や偶像的なもの(人の心を神様から離すもの)を拝んでしまう「心」の問題です。偶像そのものはそれが異教のものであったとしても人類共有の文化遺産で、保護するべきものだと思います。

3/23 (金) 使徒言行録14:19/2コリント6:1-10 

この地上は真剣に宣べ伝えようとする者にとってはその命を脅かすほどの敵が存在する戦場でもあるのです。イエス様を伝えたいとうわたしたちの思いが、誰かにとっては石で撃ち殺したいほどの敵意を誘うことがあることをあなたはどう思いますか?イエス様の和解の福音は激しく対立する人々の中にも入ってゆきます。日本にいては実感することがないかもしれませんが、世界中の宣教地に目を向けてゆくと、命の危険が無いところのほうが少ないのではないかと思います。私たちは今週ケニヤにロバートさんを送り出しました。政情は不安定ではありませんが、隣国はそうではありません。またケニヤは慢性的に旱魃の状態にある地方を抱えているのです。ボアズさんの国でもマーティンさんの国でも身の危険なしに宣教することはできないのです。私たちも心を向け、祈る事、ささげることで神様の宣教を担っているのです。

3/24 (土) 使徒言行録14:20/フィリピ1:27-30

力の伝道というのは神様の「力」を借りて伝道することだと思います。いつでも伝道は聖霊の導きがないと出来ないけれど、力の伝道は神様の超自然的なご介入を期待する事だと思います。それは伝道しようとする側に奇跡が起こる場合、たとえばこの聖書の個所にパウロにおこったよおうに死んだとおもわれるほどの思いをしても証しつずける事が出来たり、又導かれる側に不思議なしるしが示される場合も有ります。このケースの方が多いのはやはり神様のあわれみではないでしょうか。どちらにせよ、伝道する私たちに期待する気持ち、そしてそのための祈りなしでは何も起こりません。神様と私たちの共同作業なのです。神様が私たちを通して働かれるという事は本当に私たちにとって素晴らしい特権です。