*2001年4月8日メッセージとディボーションノート*

なぜ旧約聖書を捨ててはいけないのか?使徒言行録15:1〜21

メッセージの概要
私たちの聖書は旧新約に分かれています。そして旧約聖書はユダヤ教の経典でもあります。旧約聖書は新約に比べるととっつきにくく敬遠されがちですが、イエス様は「律法を廃棄するためではなく、完成するために私は来た」と言われ、別名「預言と律法」といわれる旧約聖書を大切にすべきことを教えています。また新約聖書は旧約の多くの部分を引用していて、この意味では旧約の土台の上に新約が乗っているともいえます。
 私たちがユダヤ教徒と全く同じように旧約を読もうとするなら、クリスチャンではなくなってしまいます。

A 人は古い習慣にとらわれる(15:1-5)

1)狭い視野

2)律法主義

3)愛の欠如

B 神様は古くて新しい計画を提案される(15:6-21)

1)古くて新しい?

2)キリストの体(教会)が判断を許されている

3)責任者の決断

C なぜ旧約聖書を捨ててはいけないのか? 

1)旧約聖書を読むと神様の大きな恵みを知ることができる

2)旧約聖書を読むと人間の性質を知ることができる

3)旧約聖書を読むとイエスキリストがどのような方であるかを知ることができる

メッセージのポイント

初代のクリスチャンはユダヤ教の背景を色濃く持っていたので、パウロの伝道によって信じた異邦人たちや海外に住むユダヤ人たちに福音の本質ではない部分まで押し付けようとしたり、言葉と文化の壁による差別や行き違いが生じたりしましたが、聖書を深く理解することと、互いを認め合うことによって問題を乗り越え、やがて福音は全地に及ぶようになりました。

ミニチャーチのためのヒント

1)旧約聖書の律法を「クリスチャン」はどう守ればいいと思いますか?
2)なぜ旧約聖書はキリスト教の正典として欠かせないものなのでしょう?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

4月9日(月) 使徒言行録15:1-3/ヤコブ2:5-13

主が私たちに教えてくださった「愛する」ということは、いつも私たちの内側にある「人を分け隔て」するという性質に脅かされているように思えます。自分の命さえ与えられたイエス様の愛が、もうこの使徒言行録の時代には「宗教的な慣例に人々を従わせる」ということに変質しかかっています。この私たちすべてがもっている危険な性質は、自分には甘く、他人には厳しい二つのものさし(ダブルスタンダード)を持っているということでしょう。私たちがこの性質を克服して主の愛に生きる方法は、キリストの体の一部としてよく組み合わされて歩むということ以外にはないと思います。私たちがしっかりと組み合わされているならば、他の部分の弱さを自分のこととして受け入れ、自分を測るものさしより厳しいものさしで測るということもないでしょう。ユアチャーチがいつまでもイエス様の活きた体として健康を保つことができるように、ミニチャーチの牧師のために、主任牧師のために、リーダーたちのために、お互いのために今週も祈ってゆきましょう

4月10日(火) 使徒言行録15:4-5/マタイ5:17-20

「旧約聖書は難しい」と言う声をよく聞きます。でも新約の中でも難しい黙示録があったり、比較的読みやすい手紙があったりするように、旧約も難しいところばかりではありません。詩篇や、箴言は聖書を読み始めたばかりの人にもわかりやすく具体的な行動の指針となります。モーセ5書は物語としても面白いし、神様がどのように世界をデザインされ人々をどのように導かれたかがよくわかります。私にとっては新約だけではなく旧約を読むことによって、平面的に捉えていた「福音」と言うものが、時間的そして空間的な広がりを持って、立体的に見えてきたと思います。旧約聖書を楽しく読み続けるコツを「ニューライフクラス(第一回)」でも教わります。もう終了した人でも機会があれば聴講してみて下さい。

4月11日(水) 使徒言行録15:6-7/マタイ18:18-20

先月、私たちの教会の価値観についてのメッセージで、聖霊に導いていただくことが重要な事柄のひとつであると学びました。私たちは聖霊に依り頼みます。聖霊は神のみことばを私たちに教え、個人のため、また教会のための神さまのご計画と進むべき方向を現してくださるからです。しかし、神は私たちに考えるために頭脳を与え、決断するための自由をくださいました。このことは、ユアチャーチでは牧師がたった一人で働くのではなく、チームとしてのリーダーたちがいることの理由の一つです。神さまはリーダーとなっている人たちを信頼しています。なぜなら、彼らは神によって召され、たてられているからです。私たちの牧師たちは教会のために教え、ビジョンを受け取る責任がありますが、チームとしてのリーダーシップは、そのみことばと神のビジョンに従うことによって、教会を導くのです。

4月12日(木) 使徒言行録15:8-11/マタイ7:1-6 

ここでは異邦人にも律法を当てはめた人々のことについて記されていますが、私も自分の過ちに気が付かされました。自分がクリスチャンであることは素晴らしい事実ですが、そのクリスチャンの自分を基準にして、他のまだイエスさまを知らない人を見てしまうときがあるのです。知らないうちに自分が絶対的な存在になり他の人を受け入れることができなくなります。それは人への批判や自分に対する優越感、そして人を見下すことにつながっていきます。神さまは誰も差別することなく、全ての人間を大きな愛包んで下さるというのに。ただ少しだけ早く神さまが私を選んで下さり、クリスチャンになることを赦して下さったのであり、自分が優れている訳でも進んでいる人間でもないのです。人を批判する代わりにその人のために祈るように示されました。

4月13日(金) 使徒言行録15:12-18/マルコ12:28-34 

イエス様は一番大切なこととして、自分の言葉ではなく旧約聖書の言葉をマルコによる福音書に引用して紹介しています。同じように使徒言行録の弟子たちを見ると旧約聖書を引用して大事な決断をしています。弟子たちの判断材料は、1)旧約聖書 2)主が今していてくださること でした。 私たちにとってそれは 1)旧新約聖書 2)主がいましていてくださること だと思います。 よく読み、よく祈り、よく話し合うことです。教会の教えやムーヴメントにも流行がありますが、私たちは本当に必要なものをよく見分けて行く必要があります。そうしないと「教えの風に引き回され」(エフェソ4:14)てしまいます。

4月14日(土) 使徒言行録15:19-21/コロサイ3:5-11

神様が律法を人間に与えたのは、私たちを律法によって縛るためではありません。むしろ、人間が間違った道にそれないように、私たちを守るためにその律法を与えてくださったのです。ですから、律法を守ることによって人間は、安心して神様の道を歩むことができるはずでした。ところが、律法主義者は、神様の本来の目的とははずれて、人をがんじがらめに規則によって縛るという間違った方向へと進んでいきました。そこに愛は見出せません。 また、神様は、○○人というふうに人を差別する方ではありません。心で真剣に神様を信じ、愛しているかどうかが問題なのです。自分自身が人を偏見の目で見たり、律法主義に陥らないよう、神様が私たちに与えている律法や戒めの本当の意味や目的を知る必要があります。