*2001年4月22日メッセージノート
「あなたのアイドルは誰?」
出エジプト記32:1-6 使徒言行録15:22-29A 偶像礼拝の禁止は誰に命じられているのか?
1) 神様が唯一なので「偶像」という概念がある(1コリント8:1-13)
2) 偶像の本質(出エジプト記32:1-6)
3) 偶像に心を寄せることによってもたらされる結果(1コリント10:18-20)B 私たちにとっての偶像礼拝とは
1) 形式的な偶像礼拝(列王記下5:17-19)
2) 実質的な偶像礼拝C 私たちはどのようにこの教えを守るべきか
1) 形式的な偶像礼拝より、実質的な偶像礼拝のほうが深刻
2) 形式的な偶像礼拝にどう対処するか?
3) 実質的な偶像礼拝に陥らないためにメッセージのポイント
偶像礼拝の危険は今、使徒たちの時代よりもっと巧妙な方法で私たちを陥れようとしています。パウロが教えているように偶像というものは実質のないものです。それを利用してサタンは民の心を神様から遠ざけようと、私たちの目の前にいろいろ魅力的なもの、また反対に恐怖を引き起こすものを見せ付けて私たちの心に偶像として焼き付けます。それらのものに支配され、神様に従おうとしないならあなたは「偶像礼拝者」となってしまいます。サタンに隙を見せないようにするためには、主への心からの礼拝と同じ主をあがめる人々との交わりが欠かせません。ミニチャーチのためのヒント
1)あなたにとって偶像になりそうなもの、かつて偶像だったものはなんですか?
2)神式の結婚式、仏式の葬儀、仏壇に対してどのような態度で接するべきでしょうか?
*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
4月23日(月)使徒言行録15:22/ヘブライ12:4-11
今の小学生の父親に対するイメージは「優しい」が圧倒的に多いそうです。平日忙しい父親が多く子供と接する時間がとれないために、その穴埋めとして休日は遊びに連れて行ったり、おもちゃを買い与えたりするからだそうです。その休日に叱ったり、しつけをしたら嫌われてしまうのは目に見えていますから優しい物分りの良い父になるしかないのです。父親の権威という点で少し心配です。これで子供たちは本当に成長できるのでしょうか。私たちの父、神は365日無休で関わってくれるので、現代の父親のようにご機嫌とりをする必要はありません。逆に鞭を打って私たちを訓練してくれます。私たちの成長を望んでいるからこそ辛い事にも直面させ、それを乗り越えるための力も与えてくれます。私たちは神と共にいて成長すべきです。教会の一人一人が着実に成長していけばエルサレムの教会のようにいつでも指導者を海外に送り、そして残った者がその指導者の役割を担えるようになります。
4月24日(火) 使徒言行録15:23-24/1コリント2:1-5
クリスチャンであっても自分勝手な行動をして人々の心を痛める人がいます。ここでは「異邦人であってもクリスチャンになるなら旧約の律法をユダヤ人のように守るべきだ」といって福音ではなく文化を宣教した人たちです。この箇所は私たちに対する警鐘として受け取ることができます。私たちは福音を伝えているでしょうか?それとも「クリスチャン的な文化」を伝えているのでしょうか?日本の宣教は多くの献身的で優れた宣教師たちの負うところが多いのですが、多くの場合、無意識的に自分の故郷の文化を福音の一部のように伝えたために、クリスチャンになるためには日本的文化をみんな捨てて、精神的には日本人であることさえも捨てなければならないとの誤解を与えてしまいました。誰もがそのままの姿で主の前に立ち、十字架の贖いによって罪許されることが福音です。罪を避けること、もっと愛することを除いて、神様は私たちに何の変更をも求めてはおられません。4月25日(水) 使徒言行録15:25-27/2コリント8:16-24
教会にあって信頼すべき人とはどういう人々のことでしょうか?ここでは教会全体によって選ばれその権威を認められた人、主イエスキリストのために身を献げている人だということがわかります。「牧師」とは「羊飼い」と「教師」の合わさった言葉です。ミニチャーチの牧師を含めてユアチャーチのリーダーたちにはこの二つの資質が求められています。彼らはユアチャーチカヴェナントを守り、イエス様がそうであったように「羊のために命を惜しまない」羊飼いであろうと努力しています。人間的には未熟なところもあるでしょう。資質に偏りもあるものです。それにもかかわらず神さまがこれらの人々を立ててくださったことをユアチャーチは喜んで認め権威を与えています。神様はわたしたちを成長させてくださり、今までよりももう少しだけ重たい責任を与えてくださる方です。こうして神様を信頼して従ってゆく人は、神様と人から信頼される人として成長してゆくことができるのです。
4月26日(木) 使徒言行録15:28-29/エフェソ5:1-5
異邦人クリスチャンはユダヤ人クリスチャンが守っている習慣にとらわれる必要がないと、保障されました。ただ気をつけるように警告されているのは偶像礼拝にかかわることみだらな行いとあります。それはシリア・キリキア州ののクリスチャンにとって必要なアドヴァイスだったのです。
当時でさえ偶像自体が何か存在する神的なものではなく、人が自分の心の要求に従って作り上げたものであり、それ自体には何の力もないことが明らかにされています。それにもかかわらず注意を促されたのは、機会を与えられることによって、本当に偶像を礼拝してしまい悪い影響を悪霊から受けて主から離れてしまう危うさをもったクリスチャンが多くいたからです。わたしたちの周りにはクリスチャンでない人がたくさんいます。彼らに対して礼を尽くすことはなんの差し支えもないことが、エリシャに癒してもらったナアマンの例でもわかります。4月27日(金) 使徒言行録15:30-32/使徒言行録11:27-30
預言は使徒の時代だけのものではなく、現在でも預言の賜物を持った人たちによって私たちに与えられます。しかし、受け取るとき気をつけなければならないのは、本当に神様からのものなのか、それとも偽物なのかということです。見分けるポイントは、その預言によって励まされるかどうか(15:32)、また、みなの益となるかどうかです(Iコリント12:7)。そして、もちろん聖霊に見分ける力をいただけるよう願うことによって、私たちの霊が感じ取ることができるはずです。たとえ預言者と称して教会や人々を混乱に陥れる人がいたとしても、恐れる必要は全くありません。受け取る私たちが動揺したり振り回されないようにすればよいのです。それよりむしろ、神様が私たちの教会のうちに働いてくださって、預言によってすばらしい励ましや希望をいただけることを期待しましょう。
4月28日(土) 使徒言行録15:33-35/フィリピ2:19-30
ミニストリーや宣教には色々なかたちがあり、各自がどのように関わっていくかについても、色々な段階があります。一時的に派遣されやがて帰って行く人もいれば、その土地に住んで、一生を宣教の働きに捧げる人もいます。どちらが優れているということはありません。なぜなら、それぞれに、違う役割を持ち、神さまから違う召命を受けているからです。ユアチャーチは、様々な方法によって、色々な地域に、異なる期間で、神の働き人を送り出したいと願っています。