2001年4月29日メッセージノート

私たちの価値観シリーズ(3)- John Neumann
互いの人間関係に関わる価値観
(ローマ12:10)

A. すべてのクリスチャンが持つ祭司の役割り 
(1ペトロ2:5,9ヨハネ10:14,27-29;ローマ14:4;1コリント12:21-26
エフェソ4:16)

B. 女性と子供 
(ガラテヤ3:26-29;エフェソ5:21,22,25;マルコ10:13-15;詩編8:2)

C. 一致(ヨハネ17:21-23;エフェソ4:3-6)

D. 互いに尽くし信頼すること(1コリント13:4-7;エフェソ2:19-22、2:14)

*メッセージのポイント*
ここに書かれている4つの価値観は、神の国をここからこの世界に広げていくという神様の目的を達成するためのドアのようなものです。もし教会の中に一致が無いなら、他の人々の個人的な神様との関係に敬意を払わないなら、またもし他の人々が自分で決断することやそれぞれの賜物(ギフト)を使うことを認めないなら、私たちは神様の計画を止めてしまうことになります。

*ミニチャーチのためのヒント*
あなたのミニチャーチの中で、この4つの価値観のうち弱いと思われるところやもう少し注意を向ける方が良いと思われるものがありますか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


 4月30日(月) 1ペテロ2:5,9; ヨハネ10:14, 27-29; ローマ14:4 
高校のときに世界史を学んだ人なら「万人祭司」という言葉を覚えているかもしれません。今から約500年前ドイツでルターという人が「宗教改革」を始めたときに主張したことの一つです。この宗教改革によってユアチャーチのルーツでもあるプロテスタント教会が始まったのです。私たちと神様の間柄には、誰かに立ってもらう必要がないということです。それ以前は「普通の人は司祭・神父のような人に間に立ってもらわなければ、神様と親しくなることはできない」という考え方が支配的でした。ルターは、信じるものは誰でも祭司として主の前に出て行って御心を聞き、またそこから人々の中に入って行き御心を伝えることができるという聖書の真理を伝えました

 5月1日(火) 1コリント 12:21-26; エフェソ4:16 
ユダヤ民族の祭司たちがそれぞれ異なった役割りを持って神様に仕えていたように、わたしたちもまた祭司とされているということは、他の人とは違う役割を担っているということでしょう。教会がどういう性質を持っているのか考えると、会社とも、学校とも違うように思えます。私には家庭に似ているのではないかと思えます。私たちは神の家族として一つとされているのではないでしょうか?家庭にあってはすべての人が役割りを持っています。赤ちゃんでさえ、メンバーの心を和ませ慰めや励ましをみんなに与えています。未熟であっても問題があっても無価値な人は一人もいません。

 5月2日(水) ガラテヤ 3:26-29; エペソ 5:21,22,25 
私たちは、神さまと教会に仕えるとき、神さまから与えられた賜物を使います。どのような賜物であっても、それは女性であるか男性であるかということには関係がありません。男性だけのため、また、女性だけのためという賜物ものはないのです。牧師が結婚すると、配偶者となった人もまた牧会の役割を担うということはよくあります。それは、神が造られた結婚における夫婦関係が、イエス様と教会との関係に似ているからです。「キリストの花嫁」という言葉はここから来ています。神さまは私たちに性別や年齢にとらわれずに仕えて欲しいと願っておられ、私たちはただ神を愛しているから仕えるのです。


 5月3日(木) マルコ 10:13-15; 詩編8:2 
夫婦間で考えがくい違い、口論続いて出口が見えなくなっているときに、急に1歳半のまだ言葉も十分に話せない子供が、二人の手をとって手をつながせたのです。私たちはその行動が以外だったのでたいへん驚き、照れくささも感じました。同時にそれまでの頑な攻撃的な気持ちから離れることができました。そして互いに祈りあうことができ、口論は終わりました。1歳半という成長段階では状況の理解とか、行動はまだ未熟ですから、それが主の働きであると確信できました。主が子供を用いて私たちが間違いを続けないように導いてくれたのです。この経験により主はどんなに弱い者でも、幼くても、小さい者でも主の働きのために用いるということを学ぶことができました。私たちの周りには子供をはじめ弱い存在とされている人が多くいます。しかし彼らは人間的に見れば弱いですが、神様の働きを行うものとしては決して小さな存在ではなく、大人よりも大きなそして尊い働きをしていることもあるのです。

 5月4日(金) ヨハネ17:21-23; エペソ 4:3-6 
今日の聖句を読んで、「イエスの御名によって、隔ての壁を壊そう・・・」というデイビッド・ルイスの歌が頭に浮かびました。「一つとなりなさい。一致しなさい。」というイエス様の戒めにもかかわらず、一般の社会と同じような多くの壁がクリスチャンの間にもあるのが現実です。人種、文化、学歴、職業、教団・教派、信仰のあり方・・・、私たち人間は、ありとあらゆる理由をみつけては、自分と違う者を排他しようという心が働きます。同じ神さまを信じる者同士の争いほど、神さまの心を悲しませるものはないでしょう。ユアチャーチは、色々な国の人、色々な教会の出身の人、言葉も文化も違う人たちが神さまを礼拝するために集まる場所です。このように世界中の色々な人たちと出会え、ともに信仰の歩みができることは、すばらしい特権です。もし、あなたの心の中に壁があることに気づいたら、今日、イエス様の力によって、それを打ち砕きましょう(エペソ2:14)。

 5月5日(土) 1コリント 13:4-7; エフェソ2:19-22, 2:14
私はクリスチャンではない方たちのチャペルウエディングを引き受けていますが、たいていの場合この第一コリント13章から短いメッセージをします。「互いに愛しあいたい」という気持ちはクリスチャンでなくても持っています。特にこれから二人で歩んで行こうと決心して結婚する人たちはその気持ちが強く、真剣に話を聞いてくれます。けれども彼らはやがて気づくでしょう。私たちのうちには、愛しあいたいという気持ちはあってなかなかそれができずに傷つけあってしまうことの多いものだということをです。愛しあう、認めあう、赦しあう、そうしたいという気持ちを口で表現することは簡単です。でも本当にそうなりたいと思うなら、イエス様を主として受け入れ彼とともに歩むこと以外に方法は無いのです。私は結ばれていったカップルがこのことにいつか気づきイエス様を受け入れることを祈りながら司式をしています