2001年5月6日メッセージノート


意見の衝突も悪くない  使徒言行録15:36〜16:5

 初代教会の中でも意見の衝突、それもリーダーたちの間での激しい衝突がありました。でも聖書はそのことをマイナスにではなくプラスとしてみているようです。意見の違いの扱い方を間違えると、表面的な一致は保てても、心はバラバラで互いに傷つけあってしまうことになりかねません。しかし変化を恐れず、この違いを賢く扱うなら今までよりもっと大きな成果を期待できます

A 神様は意見の異なる人を用いる

1) 共同作業をさせる場合
2) 別行動をとらせる場合
3) 違っていてはいけない事柄について

B 意見の「激しい」衝突も悪くない

1) 一致していなければならない事柄はごくわずか
2) 裁きあうより認めあう
3) 働きの拡がりをもたらす
4) 人々の霊的成長をもたらす

メッセージのポイント
 どのような集団・組織であっても、そこには一致があることが期待され、それが破られると居心地が悪く感じられます。特に私たちが持つ教会のイメージには、他のグループ以上にそれを求める傾向があります。けれども神様が求めておられるのは、私たちが意見を一つに集約して人間的一致を整えることではなく、私たちの考えの不一致さえ包み込む「神様レベル」での一致です。家族であれ職場、学校のクラスであれまた教会、ミニチャーチにあってさえ「人間レベル」での一致ではなく「神様レベル」での一致が大切なのです。それは私たちの側からいえば、「妥協や説得によって意見を一つにまとめる」ことではなく、「一人一人の考えや感じ方を生かせる道を見出す」ことです。
 私たちは自分の対面や分かれることの寂しさから、御心に反してまで意見の合わない者ともできるだけ一緒にいようと思ったりしますが、神様は教会やミニストリーの分離、独立を喜ばれ、用いられます。

ミニチャーチのためのヒント
1)ミニチャーチのメンバーの間で現れた意見の相違をどう生かしますか?
2)なぜ「意見の衝突も悪くない」のでしょうか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


5月7日(月) 使徒言行録15:36/ローマ15:22-29 
パウロとバルナバは自分たちが宣べ伝えた人々に対して、後々も責任があると考えていたようです。私はクリスチャンになって20年以上になりましたが「私がイエス様を紹介してクリスチャンになったあの人はどうなっているだろうか」とふと考えることがあります。今までは種をまいた人(私)が育てる人(その人の今の教会やリーダー)に干渉するようで、今の信仰生活に口をはさむのもどうかと思って、コンタクトをとらない人々も多かったのですが今日の36節から彼らの霊的成長の一端は私にもあることがわかりました。時には励ますこともしていこうと思いました。

5月8日(火) 使徒言行録15:37,38/マルコ9:38-41 
ユアチャーチが(日曜の朝に礼拝を持つという)今の形になってから一年が経とうとしています。ユアチャーチという一つの会衆が1教会2会衆となり数ヵ月後にその片方が独立してユアチャーチであることもやめ、また私たちがユアチャーチのたった一つの会衆となり礼拝を日曜の朝に移したのが去年の5月7日でした。この一連の動きの中でリーダーたちは何度も、「分離や独立を考えずに一緒に一つの会衆として歩むべきではないのか?」と思い返しながらも最善の道を探ってきました。人間的には寂しい思い、憤り、そしてパウロとバルナバの間で交わされたような激しい衝突も経験しましたが、このことを通して、お隣の相模原市に新しい教会ができたこと、ユアチャーチでさらに多くの人に成長の機会が与えられたこと、といった実を今見ることができるのです。

5月9日(水) 使徒言行録15:39-41/1テサロニケ5:16-24 
別れるということは感情的な苦痛を伴うものですが、これが宣教の前進のためには大きな力であることをここで教えられます。パウロとバルナバが別行動を取ることになって、同時に二つの地域での宣教が進められるようになりました。また同時に二人の次世代伝道者をOJT(現場教育)で教えることができるようになりました。アメリカのヴィンヤード教会は短い期間で多くの教会を始めましたが、その最初は創始者ジョンウインバーが義理の妹とその夫ボブ・フルトン牧師をヨーバリンダに送り出すことから始まりました。これは計画的なチャーチプランティングでしたが、ともに礼拝をささげてきた仲の良い姉妹にとっては大変寂しい経験だったとのことです。しかしこのことがヴィンヤードの送り出す教会としての良い伝統となり、次世代のスタッフを育てる良いチャンスになったのです

5月10日(木) 使徒言行録15:1,2/1コリント4-1-5 
パウロはテモテという次世代の伝道者を育てました。人々の間で評判の良い人であったようです。自分の価値は人の評判とは関係ない、といって人間的にはちょっと変わり者、あんまり評判の良くないクリスチャンが時々います。主への愛に生きるということは人間関係の常識と相容れないものではありません。主を宣べ伝えるのに人間的な協調性、常識は不要というわけではないのです。私たちが主にもっと用いられたいと願うならば、すべての人々の間で裏表なく誠実であること、与えられている役割りを精一杯果たそうという姿勢があること、教えられやすい性質を持つことが大切だと思います。

5月11日(金)  使徒言行録16:3/1コリント9:20
パウロは異邦人伝道に重荷を持った伝道者として、ユダヤ人の律法を異邦人クリスチャンが守る必要のないことを教えましたが、ここでは半分ユダヤ人の血を引くテモテに割礼を授けました。ユダヤ人としてのはっきりした客観的しるしがテモテの働きには必要となることを見越してのことでした。ここで思い出すのはパウロのそれぞれの民族に対する宣教態度を披瀝した1コリント9:20です。私たちも日本人の心に伝わる伝道のためには「日本人クリスチャン」としてあるべき態度を見出す必要があるのではないでしょうか?

5月12日(土) 使徒言行録16:4,5/詩編116:1-7 
5節は魅力的ですね。私たちの教会もそういう教会になりつつあると思います。でもそれを見るためには4節にある行動が求められている、ということ無視することはできないようです。もちろん私たちの働きに比例して信仰が強まり人々が増えるわけでは決してないと思いますが、だからといって何もしないところに落ちてくるボタモチでもありません。
 神様はこちらがつかれきって休んでいるときにも、黙々と働かれその実を見せてくださることがある一方で、どんなに私たちががむしゃらに働いても「神様はどこにおられるのだろうか」といいたくなるほどに現実が変わらないときもあります。結果が見えても見えなくても、日々与えられている役割りを地道に果たしていくことが求められているのだと思います。