2001年5月13日メッセージノート
『ハンナ』 −神はあなたを忘れない−サムエル記上1:1〜2:111.切なる祈り 1:2〜16
深い嘆きと叫び
自分の心の願い2.応えてくださる神 1:17〜20
全知全能の主
無から有を生み出す方
祈りを導き、変えられる方3.本当の献身 1:21〜28
主への従順
自分に与えられた責任をきっちり果たす
自分の力によってではなく、主からの知恵と力によって*信頼し従うときに喜びがやってくる!
ハンナの祈りとマリアの賛歌 2:1〜10/ルカ1:46〜55・メッセージのポイント・
嘆きと憤り、そして対抗心に占領されていたハンナの心は、願いに応えてくださった主によって変えられ、親として心から主に子供を委ね大きな喜びに溢れました。私たちの思いを測られる主は、たとえその思いが最初は自分の願いや欲から出たものであっても、真剣に祈り心から従っていくなら、もっと正しい祈りへと導いてくださいます。人生に勝つ秘訣は才能やチャンスではなく、全てを知り治めている主への信頼である事を今日聖書ははっきりと語っています。・ミニチャーチのためのヒント・
1.親として子供にできる最高の事は何だと思いますか?
2.主が祈りを導き、喜びに満たしてくださるようにお互いのためにミニスト リーをしましょう。
*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
5/14(月) サムエル記上1:1-6/創世記22:1-19
昨日のメッセージはイスラエルの霊的指導者として、サウルやダビデ王に油を注ぎ主の名によって彼らを王に任命したサムエル誕生の物語でした。彼は母であるハンナの悩みと祈りに応えて主が与えられた人でした。一人の母親の当たり前の悩みから始まりましたが、それが神様に子供の生涯を委ねる思いにまで昇華させられて偉大な人生の物語の始まりとなりました。私たちの教会の子供たちも、神様の目から見るとすばらしい計画を担った人たちだと思います。それを親が自分の計画の鋳型に押し込んでしまったら残念なことです。自分の思いで育てるのではなく、彼らに対する御心を求めて育てましょう。
5/15(火) サムエル記上1:7-11/2コリント12:7b-10
私たちの周りにあるものは全て主のものです。それは自分の所有する物質的なものをはじめ家族や友人、社会や家族内での役割、職や学校なども含めてです。私たちは主から与えられたものを御心通りに用いて主に喜んでもらうことを生きる目的にしています。主から与えられたものは、一時的に管理を任されれているだけで、常に主に捧げるという姿勢を忘れてはいけません。新たに欲しいものを願うときも、本来の目的は主に捧げるためであるべきなのです。11節でのハンナの祈りはそういう意味で正しいと思います。私たちの弱点は主がせっかく与えてくれたものを、あたかも自分の所有物のようにしてしまうことです。特に長い期間持っているもの、自分の努力で手に入れたものについて、もう一度ハンナの姿勢に習って主に聞いてみる時にしましょう。
5/16(水) サムエル記上1:12-20/ヘブライ11:1-3
私たちの信じる神様は、私たちの心からの叫びや祈りを必ず聞いておられます。聖書にはっきりと書かれていること以外の日常の細かなことについては、自分の願いや祈りが、これは本当に神様の御心にかなっているのだろうか?と不安になることもあります。しかし、ハンナのように、答えをまだ見ぬうちに、祈りのなかで不思議な平安と確信がやってくるとき、そのことに神様が応えてくださったということではないでしょうか。私はハンナのように陶酔と誤解されるほど激しく祈ったことはありませんが、同じように子供を与えてくださるよう神様に祈り、確信をもちました。預言も与えられました。しかし、ハンナと違ったのは、その応えが現実となるまでに何年もかかったことです。もちろん、私たちの願うことがいつも神様の御心と一致しているとは限りませんが、神様は必ず祈りに答えてくださいます(それがたとえ"No"という答えであっても)。ですから、主の語る声に耳をすませながら、心から祈り続けましょう。5/17(木) サムエル記上1:21-28/エフェソ6:1-4
主に子供を委ねるとはどういうことなのでしょうか?ここに現代の私たちの子育てのヒントが隠されているようです。いろいろな育児論が盛んになされています、若いお母さんたちの子育てサークルも盛んです。それなのに子供にまつわる社会問題が頻発しているのはどう考えたらよいのでしょうか?それは親たちに確かな価値観がないからです。過放任、過干渉といった正反対な現われが実は価値観の基準がないという同じ根から出てきていると思われます。旧約聖書に出てくる人々の子供に対する親のあり方を見るとき、厳格に育てるにしても自主性に任せるにしてもそれが親の虚栄心や他の親との競争心から来るものであってはならないということがわかります。ハンナにしてもアブラハムにしても「子供は私たちに任せられた神様のもの」という意識がはっきりとしています。5/18(金) サムエル記上2:1-8a/ルカ1:46-55
ハンナの祈りとマリアの賛歌を読むと神様はいつも弱い者、小さい者、虐げられた者の側にいて祈りに応えてくださる方であることがわかります。救い主は日々の生活の苦しみに追われるような人々の中に生まれました。サムエルもまたごく普通の悩みを抱えた女性のことして生まれました。そして神様の働きのために用いられる人として成長しました。韓国では子供になってほしい職業トップ3にいつも牧師が入るということです。
アメリカではそれほどではないにしても聖職者の道を歩む子がいることは家族の誇りです。皆さんはどう思いますか?自分の子供に牧師・宣教師になってもらいたいと思いますか?もちろんこれは本人に対して神様からの召命がなければならないことですが、皆さんは子供が伝道者になることを想像できるでしょうか?誰だって子供に報われないかもしれない人生の苦労、経済的に余裕のない生活を望む人はいないでしょう?でも神様はあなたの子供をこの世では報われない道に招いておられるかもしれません。もしそうだとわかったら韓国の両親のように神様の計画に感謝して、期待していきたいものです5/19(土) サムエル記上2:8b-11/サムエル記上16:1-7
ほとんどのクリスチャンは、自分の人生に対する主の御心が何であるかを探し求めます。そして、自分でそれが何かわかったつもりになる時、間違いをおかすのです。神さまに働いていただくかわりに、自分自身の力で何とか神の御心を達成しようとしてしまうからです。神の知恵と知識を求めるだけでなく、神さまの約束を神さまご自身が成就して下さることを信頼することが必要です。そして、私たちの一歩一歩を導いて下さるのだと信じる必要があります。私たちの霊的な強さは、神さまが何もしていないのではないかと思われるときや、物事がうまくいっていないときに、パニックをおこさずにどれだけの信仰を持つことができるかというところにあります。