*2001年6月10日メッセージノート
クリスチャン=人騒がせな人々? 使徒言行録17:1-15
パウロが行くところ、騒動が起こるのはなぜか?
1)パウロが正しいとしたら今までの生き方を否定させる事になる
2)パウロの基準は聖書だった
3)正しい事はうらみ、ねたみを起こす
私たちが注意深くあるべきこと
1)聖書に聞く
2)政治的立場と信仰について思慮深く
2)柔軟であることと妥協的であることとは違う
3)融通が利かないことと意志が硬いこととは違う
メッセージのポイント
わたしたちがこの世界で神様に対する信仰に生きることを貫こうとするなら、それに反対する力が働きます。世の中に飲み込まれてしまうのでも、世の中に背を向けるでもなく生きる方法、それが「神の国」の大使としての生き方です。「神の国」の大使は派遣された方の意志にしたがって、派遣された国の中で働きます。神様の意志を置かれた場所で行うためには、そこにすむ人々とどうコミュニケートしてゆくのかが問われます。「神様の義と、神様の愛」原則は簡単です。私たちの毎日はそれを正しく応用していくためのOJTなのです。ヒント
1)クリスチャンであるという理由で嫌われたり、ねたまれたりしたことがありますか?
2)どんな事で、これは譲れないことなのか、それとも柔軟であるべきなのか悩みますか?
*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
6月11日(月) 使徒言行録 17:1-3/ルカ4:16-22
使徒のこの時代はまだ新約聖書が成立していない時代でしたので、ここにある聖書とは旧約聖書のことです。私たちは新約はイエス様についてのことというイメージがありますが、旧約をとおしてすでにイエス様のことがたくさん預言されているのです。ルカ4章で、イエス様ご自身が旧約のイザヤ書(61:1)を引用してご自分を証ししています。このイザヤの箇所は大変重要な箇所ですから是非覚えていてください。これは、まさにイエス様ご自身のこの地上での働きそのものであり、また私たち一人一人のクリスチャンが神様に与えられた働きでもあるのです。
6月12日(火) 使徒言行録17:4-5/7:54-60
人の行動のエネルギーはいろいろなところから発生します。復讐心から自分を奮い立たせて頑張る人もいます。ここではテサロニケに住むユダヤ人が「ねたみ」のゆえに問題を起こします。テサロニケで福音はギリシャ人にも、社会的に高い地位にある女性たちにも効果的に伝わりました。それで危機意識を覚えるのはユダヤ教徒として当然な事だと思います。でも彼らは冷静にパウロに耳を傾けて論争するのではなく、ギャングを雇って福音に心を開いたものを襲わせました。それは信仰的動機(個人の良心)ではなく、ねたみという罪に基づく行動です。
さてあなたの行動の原動力は何ですか?それが復讐心、出世欲、征服欲、恨み、ねたみならどんなにエネルギッシュに生きても虚しさはつのるばかりではないでしょうか?たった一つの正解はイエス様が私たちに示された「愛」を原動力に生きることです。
6月13日(水) 使徒言行録17:6-9/ローマ8:31-39
いったん自分が正しいと信じ込むと人は、「正しい自分の行動は何をしても許される」と考えてしまいます。「正しい」事のためなら手段は選びません。うそをつくことも、暴力をふるうことも平気になってしまいます。罪は裁かれなければなりませんが、充分に人道的な司法制度のもとででなければなりません。かつてリンチが黙認される社会がありましたが、今でも表面上整った制度があるにもかかわらず、社会正義ではなく「自分の義」で裁きたい誘惑は誰の心にも忍び込みます。この(精神状態、生い立ちの影響、政治信条など様々な理由で)「自分の義」にとらわれた人はいたるところで裁判なしに人の心や体を傷つけ命を奪う事までしてしまうのです。 聖書は神様を差し置いて自分の義を求める事が大きな罪につながるという事を警告しています。
6月14日(木) 使徒言行録17:10-11/詩編119:49-56
素直な自分と頑固な自分はどちらが好きですか。もとろん私も両面をもっていますが、間違いなく素直でありたいと思っています。そう思っているにもかかわらず頑固な面が頻繁に出てきます。そのような時は自分を主張して周りの人と衝突し、人のアドバイスを受け入れられず失敗したり、謝ることがどうしてもできず、つまらない時間を過ごしてしまうのです。頑固な時は大抵神様から離れていて主と人を悲しませます。11節を見るとベレアの人々が素直だったのは御言葉に対する態度によるものだと分かります。御言葉に熱心であるのは神様に対して熱心であり、自分中心ではなく神様の意思を大切にしているということです。私も聖書を読むことで不思議なほどに素直になれる経験を何度もしています。素直になり人の話に耳を傾け、自分を客観的に見つめ自分の非を認めることもできます。神様は常に私を良い状態に保ちたいと願っていることが分かります。忙しさにかまけて聖書を開かないことがありますが、最も優先しなければいけないのは主との交わりであり、聖書を読むことです。
6月15日(金) 使徒言行録17:12-13/2テモテ4:1-5
ベレヤのユダヤ人たちは素直に聞いたのに、反対するユダヤ人たちがわざわざテサロニケからやってきて騒ぎを起こしました。5節に出てきた人たちがわざわざパウロたちを追ってきてベレアでも同じ事をしたのです。ここではいろいろな階層から多くの人がイエス様を信じたと記録されていますが、どの民族よりも神様との交わりにおいては恵まれているはずのユダヤ人の一部の人たちが強い拒絶反応を表しています。私たちもまた神様の言葉を伝えるためにこの社会に生かされていますが、反対や、抵抗があるのは当然だという事に心を留めておきたいと思います。私たちが出会う人々の反応は様々です。いちいち喜んだりがっかりしていては身が持ちません。その時々をイエス様に信頼をおいて、良い時も悪い時も与えられた確信に従って歩んでゆきましょう。
6月16日(土) 使徒言行録17:14-15/マタイ24:45-51
昔も今も、神に反対する勢力が執拗に攻撃してくることがわかります。ところが、神に信頼している使徒たちは恐れることなく、しかし知恵を用いて、次々と場所を移動しながら神のことを証ししていきます。一見、彼らが及び腰で逃げ回っているかのように見えるかもしれませんが、そうではないのです。見えない神のご計画と聖霊によって、行くべき場所へと導かれているのです。それは、彼らが行く先々で神の福音が力強く宣べられ、多くの人が救われていることによってわかります。私たちの日常においても、敵の攻撃に対して目を覚ましていて、絶えず祈るべきですが、必要以上に恐れることはありません。なぜなら、神はすでに勝利しておられるからです。