*2001年11月4日メッセージノート*

負うべき荷物/降ろすべき重荷(マタイ11:28-30)

誰もが目に見えないたくさんの荷物を持って人生を歩んでいます。手ぶらで気楽に生きているようにみえる人、重たい荷物に押しつぶされそうになりながらやっとの思いで日々を過ごす人。私たちの人生は神の国への旅にも例えられます。少なすぎては不自由するし、多ければ重すぎて身動きが取れません。長い旅行では持ち物を慎重に選ばなければならないように、人生という長いたびにも荷物の取捨選択が必要です。

この旅に必要なもの(マタイ16:24-26)

神の国のパスポート(見えない同伴者イエス様)
自分の国のパスポートが無ければ旅は危険なものになります。本当信頼できる方にしたがって歩きましょう

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マタイ16:24-26)

寄港地のVISA(そのときそのときのなすべきことを果たす権威と力)
なぜ私はここに寄留しているのでしょう?その意味をしていますか?

GPS またはコンパス(イエスさまとその体である教会) 
地図・ガイドブック(聖書の教え) 

この旅に不要なもの(ヘブル12:1-3)

物への執着(神様以外の何かに頼ること)

他人との比較(神様ではなく自分を基準に測ること)

罪悪感・自責の念(すでに解放は目の前に差し出されているのに)(詩編38:4-7)

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。(ヘブル12:1-3)

わたしの肉にはまともなところもありません。あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません。わたしが過ちを犯したからです。わたしの罪悪は頭を越えるほどになり、耐え難い重荷となっています。負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます。わたしが愚かな行いをしたからです。わたしは身を屈め、深くうなだれ、一日中、嘆きつつ歩きます。(詩編38:4-7)

必要な持ち物を負う方法

不用品を捨てなければ、必需品を入れるスペースはできない

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

必要な荷物でも重たいものはある(コリントII 5:1-10)

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として"霊"を与えてくださったのです。それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(コリントII 5:1-10)

手に入れる方法(ただで与えられる、ただしただで与えなさい)(マタイ10:8)

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

共同装備と個人装備(イエスさまにつながることがなぜ教会につながることなのか?)(民数記11:11-17)

モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。 わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。 この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。 わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。(民数記11:11-17)

そのころ、わたしはあなたたちに言った。「わたしは、ひとりであなたたちの重荷を負うことはできない。あなたたちの神、主が人数を増やされたので、今やあなたたちは空の星のように数多くなった。あなたたちの先祖の神、主が約束されたとおり、更に、あなたたちを千倍にも増やして祝福されるように。しかし、どうしてひとりであなたたちの重荷、もめ事、争いを負えるだろうか。部族ごとに、賢明で思慮深く、経験に富む人々を選び出しなさい。わたしはその人たちをあなたたちの長としよう。」あなたたちがわたしに答えて、「提案されたことは結構なことです」と言ったので、わたしは、あなたたちの部族の長で、賢明な経験に富む人たちを選んで、彼らをあなたたちの長、すなわち千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とし、また、あなたたちの部族の役人とした。(申命記1:9-15)

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(ガラテヤ6:1-10)

不要な荷物をどう捨てるか?

願いを持つ(ピリピ2:13)

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(ピリピ2:13)

祈る/祈ってもらう/手助けをしてもらう(ヤコブ5:13-18)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。(ヤコブ5:13-18)

あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。(詩編55:23)

わたしたちの力の神に向かって喜び歌い/ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし/琴と竪琴を美しく奏でよ。角笛を吹き鳴らせ/新月、満月、わたしたちの祭りの日に。これはイスラエルに対する掟/ヤコブの神が命じられたこと。エジプトの地を攻められたとき/ヨセフに授けられた定め。わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試した。わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。(詩編81:2-11)

あなたはイエスさまの前にすべての重荷を下ろしたはずなのに、いつのまにか持たなくてもいい荷物を抱え込んで重たい思いをしていませんか?それはあなたが重たくて大変なだけではなく、本来あなたが持つべき荷物をもてないでいるということでもあるのです。この辺で心のスーツケースの中の不用品を整理し、空いたスペースに必要なものに入れ変えましょう。
また、あなたの周りに重荷で押しつぶされそうになっている人はいませんか?神様はあなたが神様からただでいただいた恵みをあなたを通してその人に伝えようとしています。

メッセージの要点
イエスさまは私たちの負いきれない重荷を下ろしてくださる方です。下ろすためにはただ彼の前に行き、彼を主と受け入れることです。イエス様だけが私たちの重荷を取り去ることのできる唯一の方です。またイエスさまは持たなくてもよい重荷を下ろしてくださるばかりではなく、負うべき荷物を負わせて下さる方でもあります。負うべき荷物とは神様が与えてくださる自分の役目を果たすということです。無意味な苦労ばかりの人生も空しいですが、苦労が無いというだけならこれも同じくらい空しい人生です。持つべき荷物も時には重たく感じられることがありますが、神様があなたを信頼して持たせて下さった荷物を担って歩くとき「神様の愛」の運び屋としての喜びがその重さを軽くしてくれます。

ミニチャーチのヒント
1)自分が持つ必要は無いのについ抱えてしまう重荷がありますか?
2)自分が本当に負うべき荷物とは何でしょうか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11月5日(月)マタイ11:28-30 / 詩編81:2-11
あまりにも荷物が重すぎて何もかも投げ出してしまいたくなることがありませんか。月曜日は特にこれからの1週間が大変そうだったりすると、職場や学校に行くのも憂鬱になってしまいますよね。日本のカレンダーは月曜日が週の最初に設定してありますが、これも疲れる原因のひとつだと思います。クリスチャンのカレンダーなら週の初めの日は日曜日です。そしてこの週の始めの日に神様から大きな力、喜び、愛をいただいて週を始められるのはクリスチャンの特権です。今朝のあなたの気分はいかがですか?あんまり元気が出ませんか?それなら昨日いただいた恵みを思い起こしてみましょう。いただいた力、喜び、愛を早速今日から使ってみましょう。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

わたしたちの力の神に向かって喜び歌い/ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし/琴と竪琴を美しく奏でよ。角笛を吹き鳴らせ/新月、満月、わたしたちの祭りの日に。これはイスラエルに対する掟/ヤコブの神が命じられたこと。エジプトの地を攻められたとき/ヨセフに授けられた定め。わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試した。わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。(詩編81:2-11)

11月6日(火)マタイ16:24-26 / コリントII 5:1-10
誰もが目に見えないたくさんの荷物を持って人生を歩んでいます。手ぶらで気楽に生きているようにみえる人、重たい荷物に押しつぶされそうになりながらやっとの思いで日々を過ごす人。あなた自身はどうですか?持つべきものを持っていない不満がありますか?それとも重すぎて苦しいですか?私たちの人生は神の国への旅にも例えられます。少なすぎては不自由するし、多ければ重すぎて身動きが取れません。長い旅行では持ち物を慎重に選ばなければならないように、人生という長いたびにも荷物の取捨選択が必要です。

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マタイ16:24-26)

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として"霊"を与えてくださったのです。それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(コリントII 5:1-10)

11月7日(水)民数記11:11-17 / ガラテヤ6:1-10
ユアチャーチでは「教会はキリストの体です」とよく強調されますね。それは神様が私たちにゆだねられた重荷を一緒に担ってゆく共同の働きだからです。ユアチャーチは牧師が何でもしてくれる教会ではありません。あなたの羊飼いは誰ですか?あなたの羊は誰ですか?ユアチャーチでは牧師は羊飼いの訓練をするのが務めです。そして神様はあなたが羊飼いとして成長してゆくことを期待しておられ、そのために必要ないやし・力・知恵そして何よりも勝って愛を惜しみなく与えてくださいます。

モーセは主に言った。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。 わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。 この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。 わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。(民数記11:11-17)

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(ガラテヤ6:1-10)

11月8日(木)詩編38:4-7 / ピリピ2:13
人の心を傷つけてしまったとき、自分のせいで人が困ったり、苦しんだりすると心苦しくなるのは当たり前の感性です。この感性に欠けていて平気でいられるのは問題ですが、逆にあまりにも自責の念に駆られ、自分を責め続けるのもよくないことです。犯した罪は赦されて初めて解決するものです。でも勘違いしないでください。赦してくださるのは神様なのです。傷ついた相手は赦してくれないこともあるのです。そしてそれはあなたの問題ではなくその人自身の限界によるのです。誤って人を死に至らしめてしまったら、その周りの人はあなたを赦すことはできないかもしれません。でも神様は赦してくださいます。もちろん法の裁きは受けなければなりません。しかし神様は人が赦せないことであってもあなたを赦し、例え牢の中であっても希望を与えることのできる方です。

わたしの肉にはまともなところもありません。あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません。わたしが過ちを犯したからです。わたしの罪悪は頭を越えるほどになり、耐え難い重荷となっています。負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます。わたしが愚かな行いをしたからです。わたしは身を屈め、深くうなだれ、一日中、嘆きつつ歩きます。(詩編38:4-7)

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(ピリピ2:13)

11月9日(金)マタイ10:8 / ヘブル12:1-3
あなたの周りに重荷で押しつぶされそうになっている人はいませんか?神様はあなたが神様からただでいただいた恵みをあなたを通してその人に伝えようとしています。私たちはただ人生の重荷を下ろしただけでなく、負うべき荷物を与えられています。だから重すぎて歩けないのでも、軽すぎてフラフラしているのでもありません。私たちが期待されていることは「キリスト教の教義を伝えること」ではなく、それは重荷を下ろしてくださった方(解放者)であり荷物を負わせてくれた方(人生の目的を知らせてくださった方)でもあるイエスさまを紹介することです

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。(ヘブル12:1-3)

11月10日(土)詩編55:23 / ヤコブ5:13-18
あなたは旅行に行くとき、荷物を上手にまとめて無理なく、無駄なくパッキングできるほうですか?私はだめですね。必要なものは忘れて旅先で買う事になるし、せっかく持っていったのに全然使わないものもあって悔しい思いをしますが、なかなかうまくなりません。あなたはイエスさまの前にすべての重荷を下ろしたはずなのに、いつのまにか持たなくてもいい荷物を抱え込んで重たい思いをしていませんか?それはあなたが重たくて大変なだけではなく、本来あなたが持つべき荷物をもてないでいるということでもあるのです。この辺で心のスーツケースの中の不用品を整理し、空いたスペースに必要なものに入れ変えましょう。

あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。(詩編55:23)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。(ヤコブ5:13-18)