*2001年11月25日メッセージノート*

主を喜ぶことは私たちの力 バド ピアソン

11月11日以来、私たちは恐ろしく、また喜びのない世界に生きているようです。人々は、次にはどんなことが起こるかとおののいています。しかし神様は、その民が愛と喜びと平安を得ると約束しておられます。(ネヘミヤ 8:10b)

A いつも喜んでいなさい(1 テサロニケ 5:16)
1) 神様の願いは私たちが喜んでいることであり。またそう命じておられます。
2) 私たちはいつも喜んでいるべきです (ピリピ4:4)
3) 喜びは健康や富やまた何か別のものによるのではなく、ただ主によるものです。

B 喜びは御霊の実 (ガラテヤ 5:22)
1) それは私たちの内にあるのではなく神様から来るもの。
2) パウロとシラスは牢獄の中で喜んでいた。(使徒 16:25)
3) 私たちが聖霊に満たされるとき, そこに喜びがある。(エフェソ 5:18-2?)

C 喜びを神様に向かって、また人々に向かってあらわそう
1) 私たちは救われていて、自分たちがどのような者であるか知っている。 (エフェソ 2:19)
2) 主の前に喜ばしい歌をうたいつつきなさい (詩編 100:2, 66:1)
3) 私たちは、まわりの人々に喜びを見せるために存在する

D 喜ぶことについての個人的あかし
1) 健康を損ねたときのこと
2) 主はいつも共にいて大きな喜びを下さった (1 ペテロ 1:7-8)

神様は私たちの生活を愛によって、イエスキリストにある救いによって、聖霊によって変えて下さいました。それが私たちの喜びです。私たちは喜びに活かされ、この恐れの多い、喜びのない世界の中で、喜びに満ちて生きることによって主をほめたたえ、主に栄光を記すべきです。 ハバクク 3:17、18を読んでみましょう。

ミニチャーチのためのヒント
1) ハバクク3:17,18. を読んで話し合いましょう。私たちの生活の中でどのようにしてこのことがリアルになるのか?
2) あなたの人生における「主にある喜び」について証を分かち合いましょう


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は日曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11/26(月)ネヘミヤ 8:9-12、1 テサロニケ 5:16-22 
「いつも喜んでいなさい」と言われても簡単に出来るわけない、と思っていました。どちらかというと心配性で物事をネガティブに捉えてしまうので、苦しみや恐れの中にいると、気に病んで沈んでしまうのです。いつも明るくあっけらかんとした人を見ると羨み、あの人のようになれたら、と思ってしまいます。こんな私も神さまが「いつも喜ぶ人」に変えてくれるということに今更のように気づき、まじめに期待するようになりました。自分では変えられないが、神さまなら出来るのだから、続けて祈っていこうと決心しました。まだ始まったばかりで劇的な変化は見られません。しかし苦しい状況の中にいても以前より主を思うことが多くなり、その結果落ち込まなくなりました。「私の愛を受け取るために絶えず祈りなさい。そうすればいつも喜んでいられます。」主はこのように語っています。

11/27(火) ピリピ4:4-7、ヨハネ15:11-17
私は最近まで、"受けた心の傷"についてどう祈るべきか知りませんでした。私が神さまに赦されたのだから、同じように人を赦したいと祈り、その後はその傷がうずいてもなるべく気にしないように過ごしてきました。その頻度はだんだん少なくなってきましたが、それでも傷つけられたこと、悲しみ、苦しみ、怒りは時々思い出されて、気持ちを揺さぶりました。不必要なものは捨て、新しく変わっていきたいと本当に願っているのにどうしてだろう?とクリスチャンの友人に相談しました。私にはまだしていなかったことがあったのです。神さまに何もかも話すことでした。どんな傷があるのか、どんな悲しみや怒りがまだ私の心にあるのかということです。それらを口にすると、また嫌な思いを心に刻んでしまうようで恐かったのです。友人に助けられ、ようやく神さまに打ち明けました。確かに神さまはすぐ近くにおられました。その後は過去を思い出しても、以前のように心は揺れなくなっていました。ただ過去の事実として思い出されるだけで、何の感情も湧かないのです。神さまの業としか思えない不思議なことです。「あらゆる人知を越える神の平和が、あなた方の心と考えとをイエスキリストによって守るでしょう」(ピリピ4:7)神さまの約束、誠実さに改めて感謝し、一緒にいられることの喜びが心にあふれました。

11/28(水)使徒16:16-34、ガラテヤ5:22
 私には今、受け入れ難い困難な問題が一つあります。今日の聖句を読んで、パウロのように命の危険にさらされる程の問題ではないのに、喜んで歩んでいない自分に気づかされました。そして、賛美がわき上がるほどの喜びと祈りによって、神が大きな力を与えてくれることを改めて教えられました。しかも、その不思議な力は他の人を救いに導いたのです。自分の困難にばかり目を留めるのを止めて、まず主がともにいてくださることを喜んで、主を賛美することから始めたいと思います。パウロのような大きな御霊の実(ガラテヤ参照)を実らせるには時間がかかるかもしれませんが、私も心から主に信頼し委ね、たくさんの聖霊の実を結ぶ人生を歩みたいです。

11/29(木)エフェソ2:14-22、ヨハネによる福音書8:12-14 
10代の頃、クリスチャンになる前の私に喜びをもたらしていたのは、その当時人気のあった歌手やロックグループでした。これからの将来に対する指針を求めていた年頃だったので、彼等は私にとって「カリスマ的」存在でしたが、言動の矛盾やスキャンダルで簡単に失望しました。どんなにかっこよく、立派に見える人でも人を正しく導くことはできません。けれどキリストは、どんな嵐の中でも船を港へ導くことができる灯台の光のように、私たちを常に正しく導くことができます。世の中の出来事や人の言動にだけ目を向ければ、私たちの喜びは簡単に消え去りますが、神の家族に属していることに希望を置き、イエス様という光と共に歩むなら喜びが消えることはありません。変わらない喜びを与えてくれる主に目を向けましょう。

11/30(金)詩編100:1-3, ヨハネによる福音書21:4-7
私は自分の感情をあまりストレートに表せないタイプなので、ペテロのような人はちょっとうらやましいですね。ペテロがイエスさまの一番の弟子だとみなされているのは彼が聖書をよく知っていたからでも、勇敢であったからでも、雄弁であったからでもなく、イエスさまを心から慕い、誰よりも大胆にその心をあらわしたからだと思います。人間関係においては、それが肯定的なものであっても、あなたの感情の表現がひとに誤解されたり、人を傷つけてしまうこともあるので思慮深くあるべきですが、イエスさまは私たちの知っている誰よりも「太っ腹」な方なので、わたしたちの喜びも悲しみも、文句や愚痴もドンと受け止めてくださるでしょう。ユアチャーチの礼拝では自分の思いのままに(人がそうしていなくても)主の前に立ち上がったり、手をたたいたり踊ったりしても、誰も気にしないでいてくれるので、私にとっては主の前にもっとも大胆になれる時間です。あなたも嬉しかったら一緒に立ち上がって踊りませんか?

12/1(土)ハバクク 3:17-19、1ペテロ 1:3-9
神様は私たちの生活を愛によって、イエスキリストにある救いによって、聖霊によって変えて下さいました。それが私たちの喜びです。私たちは喜びに活かされ、この恐れの多い、喜びのない世界の中でさえ、喜びに満ちて生きることができるということはなんという特権でしょう。私はこれを読んでいてくれるユアチャーチの皆さんよりは、少しばかり長い間クリスチャンとして生きてきたと思うのですが。振り返って考えていつも喜んでいましたか?と問われればもちろん答えは「イエス」ですが、苦しかったですかと聞かれてもやっぱり答えは「イエス」なのです。私たちクリスチャンが試練の中でさえ喜べるのはイエスさまが一緒にいてくださるからです。すべての答えはやっぱり「イエス(Jesus)」なんちゃって