2001年12月9日

*メッセージノート*

クリスマスプレゼント・あなたは誰に何をあげるの?
  マタイによる福音書1:1‐25

A) なぜマタイは系図で物語を始めたのか?(1:1-17)
1) メシアがダビデ王の子孫として生まれるという預言の成就を知らせるため
2) イエスさまの救いがすべての人に及ぶということを伝えるため

B) 信頼できる生涯の友(18-20、コロサイ3:12-17) 
1) 付き合って見なければ信頼に値するかどうかはわからない
2) 信頼(信仰)するとは愛することだ
3) 愛するとは与えることだ

C) なぜイエスさまは来て下さったのか?(21-23、イザヤ7:10-17) 
1) あなたを***から救うため
2) あなたとずっと一緒にいるため

D) 今年の価値あるクリスマスプレゼントは?
1) イエスさまは今年何をあなたに下さったか
2) イエスさまにもう一度あなたの生涯を
3) あなたが愛しているあの人にイエスさまを

メッセージの要点
クリスマスの楽しみの一つ、クリスマスプレゼントの由来、それは神様がご自身を一人子イエスさまとして下さったことです。それはあなたをあらゆる問題から解放し、永遠の友となってくださるためでした。この愛に応えて私たちは神様と人とに素晴らしいプレゼントをあげることが出来ます。それはイエスさまに自分自身を、そして人々にイエスさまをプレゼントすることです。

ミニチャーチのためのヒント
1) イエスさまは今年何をあなたに下さったか?感謝を分かち合いましょう
2) あなたは誰にイエスさまを伝えたいですか?どうしたらよく伝わると思いますか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は日曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

12/10(月)マタイによる福音書1:18、コロサイ3:12-17
神さまは不思議な形で私の心の中に入ってきました。頑固な私はクリスチャンになりたいと思っていても半年ぐらい「イエス様を主とする」と告白できずにいたのですが、ある礼拝中に涙が止まらなくなり、それまでの頑固な心が嘘のように解かれ、自然に告白できたのです。イエス様がこの地上に生まれたときも、マリアが身ごもるという超自然的な方法でしたが、私の中に来た時も人間の考えを超越した方法でした。イエス様をまだ信じてない人にはこの私の出来事は話したことがありません。話してもきっと不思議な話として聞いてもらえるだけで、それが信じるきっかけになるとは思えないからです。話さなければいけないことは、私の中にどのように来たかではなく、私にとってどのような存在で毎日どのように助けを与えてくれてるかです。そして私のような者が神の愛を示す者と変えられ、少しずつそれが実行できているという事実を伝えることです。

12/11(火) マタイによる福音書1:19-20、詩編128 
「神様が一人の人としてこの世に生まれる」こんなアイディアは神様にしか浮かばないと思いませんか?ある人は「神様が歴史の中に"突入"された日」と表現しましたが、マリアやヨセフにとってはある意味、飛行機が落ちてくるよりも迷惑な話だったのでしょう。天使が現れてくれなければ到底信じられるような話ではありません。いえ天使にそう言われて疑いがその時点ですべてなくなったのではないと思います。ヨセフはこのことが分かってマリアとの婚約を解消しようとしました。マリアの説明だけでは納得できなかったのでしょう。私も当然だと思います。マリアやヨセフのような当事者でなければ、なおさらそんな話を信じる人はいないでしょう。私は今誰が何と言おうと聖書が告げていることを100%事実として信じていますが、それは人に信じなさいと言われたからではありません。半信半疑ながら信じようと決心し、それからの歩みの中で、神様が日々に恵みと憐れみによって確信へと変えていってくださったのです。

12/12(水) マタイによる福音書1:21、創世記17:5, 15-16
 先週のメッセージの中で学んだように、「イエス」という名前はヘブル語「ヨシュア」という名前のギリシャ読みで「主は救い」という意味の言葉です。聖書にでてくる人の名前はたいてい信仰的に深い意味を持っています。今日は、旧約聖書から一例をご紹介しましょう。アブラハムの妻の名前、サラは「王女(プリンセス)」という意味です。また、NIVスタディーバイブルによると「国々と王たちの母、つまり、主の目的に仕える」という意味があると書かれています。 私たちは、子供が生まれる前から、聖書の名前からつけようと決めていました。そして、女の子だったので、創世記のサラに倣ってつけました。(娘には英語Sarahの発音に近いセイラと名づけましたが、日本語の聖書では、サラと訳されています。)さらに、日本の戸籍上の名前には「聖」く、「麗」しいという漢字をあてました。もう、おわかりでしょうが、親というものは我が子には多くの望みを持っているものなんです!

12/13(木)マタイによる福音書1:22、イザヤ7:10-17 
旧約聖書より新約の方がとっつきやすい、と思っている人は少なくないのでは?わたしもその1人ですが、神様がどんな方なのかもっと知りたいと思い、以前よりも旧約聖書に親しむようになりました。特に救い主がこの地上にこられて、十字架で私たちの罪をあがなって下さることが、イエス様が生まれる何百年も前に旧約聖書の中で預言されていて、実際にイエス様が来られたことにより預言が成就し、そして今、自分もイエス様によって罪を赦され生かされていることを思う時、聖書=旧約+新約=一貫した神の言葉なんだなあ、と改めて思います。単なる知識としてでも、クリスチャンとしての義務としてでもなく、そこから神様が個人的に語られるメッセージを受け取るために、新約聖書と一緒に旧約聖書も味わいましょう。

12/14(金)マタイによる福音書1:23、イザヤ8:5-10
私は時々悲しみや不安に押しつぶされそうになることがあります。そんなときは自分の意思に反して、不安が悪い想像を掻き立て、さらに悪い方向へと気持ちが沈んでいきます。ただ「神さま・・・」としか祈れないような心境です。けれども、ただ「神さま・・・」という叫びのような祈りの中で、本当に神さまがすぐそばにいてくださることを感じることができるのです。困難や悲しみは一瞬前と何も変わらないのに、心境がまるで違っていることがわかります。理屈では説明できないけれど、穏やかな心の状態に落ち着いているのです。こうして神さまが共にいてくださることを知る(感じる)ことができると、本当に心強くなり、ようやく適切な行動をとることができるようになります。困難や悲しみを通して、「共におられる」神さまを信じていることを繰り返し確認する必要があるのだと思います。

12/15(土)マタイによる福音書1:24-25、使徒言行録9:10-19
誰でもひどい夢を見て寝覚めが悪かったという経験をしたことがあると思います。「ああほんとじゃなくて良かった」という類の夢です。私はどういうわけかこのような夢を見ることはあっても、「この夢が本当だったらなあ」というのは見たことがありません。ヨセフの見た夢はそのどちらでもありませんでした。それは神様からの「お告げ」だったのです。ヨセフは夢を信じて、この「異常事態」を受け入れマリアを妻とすることにしたのです。私も時々神様が夢の中でよいアイディアを知らせてくださるという経験をします。それらは実際にユアチャーチのリーダーの一人としてミーティングで提案され教会のミニストリーの中に生かされています。あなたにも神様が夢の中で語ってくださるかもしれませんよ。期待しましょう。でも一つだけ注意してください。サタンが天使を装って囁く事もあるのです。重大なことだったら必ず、リーダーの誰かに相談してくださいね。