*2001年12月30日メッセージノート*
2001年に置いてゆくもの、2002年に持ってゆくもの
申命記4:1-14
回顧はよい将来のためにする(出エジプト記、民数記、申命記3:23-29)
1) モーセは失敗の山を築いた
2) モーセは過去の失敗によって使命を見失うことはなかった
3) モーセ自身は約束の地に入ることはできなかった
来年はもっと(目標は高すぎず低すぎず)
1) 主に忠実に従う(4:1-4、黙示録22:16-21、フィリピ2:12-18)2) 生活密着型信仰(4:5-6、ルカ6:46-49)
3) 主に喜ばれる礼拝(4:7-8、2コリント6:14-7:1)
4) 子供たちに語り伝える(4:9-12、詩編46)
5) 十戒を意識する(4:13-14、出エジプト記20)
メッセージのポイント
人は将来のために歴史から学びます。あなたの祝福に満ちた未来のために聖書を読み、自分史を建設的に回顧しましょう。モーセは民に対する自分の最後の義務として、また今まで彼らを導いてきた集大成として今日の聖書の箇所を語りました。私たちはユアチャーチとの歴史の一つの章を終え、新しいページを開こうとしています。継続してゆくべきこと、やめてしまうべきこと、新しく始めるべきことを主によく聴いて歩んでゆきましょう。
ミニチャーチのためのヒント
1) 2001年に受けた恵みベスト10 を披露しあいましょう
2) 自分にとっての2001年においてゆくべきこと、2002年に持ってゆくこと、2002年に新し
く始めたいことは何ですか?
*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は日曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
12/31/2001(月) 申命記4:1-2、黙示録22:16-21
初詣をする習慣のある友人をからかって「初詣って言ったって一回しか行かないじゃん。」と言ったら「二回だよ。元旦と大晦日」と言われました。大晦日の深夜に出かけて元旦の朝に帰ってくるのでそういう計算になるそうです。今晩も多くの人々が神社仏閣に行き、一年の無事を感謝し、来年の幸を祈って懐の痛まない程度に賽銭を投げることでしょう。誰でも揺るぐことのない幸福を願います。でもそれは一年の最初で最後の初詣をすることで与えられるとは思えません。聖書はもっといい方法を提案してくれています。究極の幸せ、永遠の命を手に入れる方法は「神様の教えに忠実である」ということです。神様の教えはどうしたら知ることができますか?それは聖書に書いてあります。でも聖書はちょっと難しいところがあるし、どうやって実生活に適用したらいいか分からない。だから教会があるんです。私たちは聖書でもつい自分の都合のいいように解釈してしまいますが、教会の仲間と交わりをすることによって、自分の信仰をある程度客観的に見ることができ、また互いの信仰が観念的なものではなく、実生活に即したものになるよう助け合うことができます。1/1/2002(火) 申命記4:3-4、フィリピ2:12-18
新しい年が始まりました。皆さんはどんな抱負を抱いていますか?「今年こそ目標5キロ減!」など分かりやすい目標も悪くありませんが、もっと大切な目標が私たちには与えられています。フィリピ2:12には「自分の救いを達成するように努めなさい」とあります。救われているのに今さら何を、と思うかもしれません。でも神に選ばれたイスラエルの民の中にも、主に背いた為に裁かれ滅ぼされた人々がいたように、私たちは主に選ばれているはずなのに、その偉大な恵みを忘れて神様から離れてしまう弱さを持っているのです。私は過去の一時期、神様を第一に愛していたつもりで、いつの間にか神様よりもある人の顔色や反応を恐れ、その人の気分を害さないように行動していたことがありました。結局その人は私の元を去り、1人になって私は自分の心が主以外のものを恐れていたことに気付き、そのことを悔い改めました。そんな私に何度も神様は「愛しているよ」と語ってくれました。自分の弱さを痛感したと同時に、この神以外に畏れるべき方はいないことをはっきりと確信しました。不安定な世の中を恐れないで生きる秘けつは、神を畏れ、神の前に日々ひざまずくことであることを、この一年も心にとめて歩みましょう。そこには必ず大きな祝福があります。1/2/2002(水) 申命記4:5-6、ルカ6:46-49
今日の箇所を読むと、聖書やメッセージを通して教えられていることは「日々を豊に過ごすためのおすすめ事項」などではなく、神様からの命令であり、私たちはそれを忠実に守り行わなければならないということがわかります。みことばに条件をつけたり、差し引いたりして受け取るのでは意味がありません。神さまの掟として現実の生活の中で従わなければならないのです。もし行いが伴わないなら、みことばを真実だと確信していないことになります。私にとって、みことばに従う生活は時には難しく思えます。毎朝「今日みことばにしたがうことができますように」と祈り、困難を感じる度に神様に助けを求めます。助けられて乗り切れるときと、失敗してしまうときと、もちろんどちらもあります。失敗してしまったときは、またみことばに従い悔い改め、赦していただくのです。地面を深く掘り下げる作業は大変ですが、岩の上に土台を置いて家を建て、安心して暮らしたいですよね。1/3/2002(木) 申命記4:7-8、2コリント6:14-7:1
イスラエルの民は主から選ばれた特別な民族で特権を与えられていました。クリスチャンもまだ主を知らない人たちと比べると少しだけ早く選ばれたという点で特別であり、イスラエルの民と同様に特権が与えらているのです。それはいつでも「主は近くにいる」という素晴らしい特権です。この特権を行使する時、私はより良い心の状態を保つことができます。私が目を閉じて心を主に向けるときはいつでもすぐ応答があるからです。主という大きな存在に心の平安を取り戻し落ち着くことができます。貪欲な気持ちから与える者へと変わる事ができます。人に対する怒りや感情をコントロールし平和を保つことが出来ます。私自身は決して大いなる国民と言われる様な者ではないのですが、主の近くにいる私は大いなる国民として用いられているのだと思います。1/4/2002(金) 申命記4:9-12、詩編46
アメリカの公立の学校では、何年も前に、神に祈ることや聖書を読むことが禁じられ、その時から学校荒廃が急激に進んだとアメリカ人宣教師から聞いたことがあります。また、進化論に基づく神を否定する教育が当然のように行われています。キリスト教主義の国でさえ、そうなのですから、神さま中心の教育を日本の学校に期待することは不可能です。学校には期待できない分、次世代に信仰を継承するためには、大きな責任が親や教会にあることは間違いありません。子供を育てるようになって初めて気づいたことですが、聖書には子育てに関する聖句があまり多くありません。それは親である私たちがまず聖書に聞き従うということが鍵であり基本となるからではないでしょうか。つまり自分が神さまの命令を守り、愛し合って生きていなければ、子供に何を教えても意味がないのです。今日の聖句や「心から神を愛することを、あなたの子供たちによく教え込みなさい(申命記6:5-7)」という聖句を実践することを、私たちは真剣に取り組まなければなりません。1/5/2002(土) 申命記4:13-14、出エジプト記20
神様がモーセを通して民に与えられた十戒。この原則は倫理の基本として今の社会でも通用するものだと思いませんか?十戒が完全に守られていたなら、きっとこの世界は今よりずっと平和なものになっていたでしょうね。でも与えられたイスラエルの民もそれを守ることができませんでした。人間の理想的なあり方と自分の内面を比べてみると、本当にがっかりしてしまいます。でも神様はあきらめなかった!私たちを見捨てられなかった!イエス・キリストとして神様のほうからこっち(世界)に来てくださったのです。しかも神様の救いの計画ははじめからイスラエル民族に限られたものではなく、全世界に及ぶことをイエス様は宣言されました。十戒の原点は唯一の神様にだけ従うことだと思います。そこがしっかりしているなら、残りの部分も守ってゆくことができます。でもそこのところがあいまいで、神様よりも自分の欲望を優先させてしまうなら十戒は到底守ることはできません。残念ながら世界は後者の傾向のほうが強くて、平和な世界とは言いがたいですが、キャンドルサーヴィスのメッセージで聞いたように、まず自分が神様との関係を強化して「平和の水源地」になることをめざしたいと思います。