*2002年1月27日メッセージノート*

裁き+赦し=愛 (マタイ3:1-17)

A 神様の裁きは厳しい(1-13、イザヤ40:3-11、列王記下1:1-8、マタイ12:33-37、ルカ 19:1-10)

1)神様の裁きを免れることのできる人は一人もいない

2)悔い改める必要のない人は一人もいない

3)悔い改めは実を結ばなければならない

バプテスマのヨハネは旧約の預言者エリヤを彷彿とさせます。そのいでたちといい、激しい悔い改めを求める警告のメッセージといい、当時の人々にエリヤの再来と噂されました。
 当時のユダヤでは神様の怒りが差し迫っているという雰囲気がありました。ローマ帝国に支配され、経済的にも精神的にも荒廃した重苦しい雰囲気の中で、この状況が民の不信仰によってもたれされていることを指摘し、特にその矛先は政治的、宗教的指導者たちに向けられました。口先だけの悔い改めをしようとする彼らに「ふさわしい実を結べ」とヨハネは言っていますが、私たちはその悔い改めにふさわしい実を結んでいるでしょうか?
 イエス様のこの世界への登場は、人々をはっきり二つの種類に分けてしまいます。神様のもとに立ち返るか、離れ続けるかの意思確認です。それは不当な利益を得たり、他人を虐げたりしてきた者には、生き方の方向転換をするのかしないのか。苦しみの下にあった者にとってはさしのばされた解放の手にすがるか、背を向けるかの決断です。

B 神様の赦しは完全(13-17、ヨハネ13:1-8、イザヤ11:1-10)

1)私たちの罪を身代わりとして負ったイエス様

2)私たちの生き方のお手本としてのイエス様

3)聖霊が徹底的な裁きと徹底的な赦しを結びつけられた

イエス様はとても謙虚なお方ですが、私たちにも同じ資質を持つことを期待されます。バプテスマには「神様に対する服従の表明」をも意味しています。イエス様はここで私たちに「神に従うこと」「互いに僕として仕えあうこと」のお手本を見せてくださいました。イエス様の教育法とはいつも自分が率先してやって見せ、それから弟子にやらせる、という方法で、イエス様の弟子である私たちもまたそのようにしてより若い弟子たちを教えてゆきます
 聖霊を受けるというと、何か神様からスーパーパワーをいただくことのように考えがちです。もちろん私たちが聖霊を受けるとき、そのような超自然的な賜物をも与えられます。しかしここであきらかなことは、私たちが聖霊を豊かに受けるべき第一の理由は霊的パワーを得ることではなく「主を知り畏れ者」となるためだということです。このことが不十分だと、力が誤って使われたり、高慢になって道を踏み外す恐れがあります。

メッセージの中心点
 私たちはつい神様の裁きにおける厳しさと、十字架のイエス様による赦しとを分離して考えがちです。神様の厳しい面だけに目を向けて必要以上に恐れている人や、従うことを諦めてしまう人がいます。その一方で、イエス様の赦しの完全さだけに目を向けて、実を結ぶという点で何の努力もしようとせず終末を待ち続ける人もいます。私たちも生き方のお手本はイエス様です。イエス様は具体的にどのように神様に従ってゆくかを身をもって教えてくださいました。この世におけるクリスチャンの役割は愛することですが、完全な愛とは裁きと赦しが妥協なく組み合わされたものであって、聖霊に満たされることによって私たちの中に実現するのです。

ミニチャーチのためのヒント

1)神様のイメージを話し合ってみましょう。クリスチャンになる前、なったばかりのころ、現在ではその印  象は変わってきましたか?
2)イエス様はなぜヨハネからバプテスマを受けられたのでしょうか?



ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年1月28日(月) マタイ3:1-3、イザヤ40:3-11

大学時代私は聖書研究会に所属していたのですが、メンバーの中に将来牧師になりたいと考えている人が何人かいました。その中の1人に、ことあるごとに「僕は大学を卒業したら神学校に行って牧師になる。そしたら僕の教会に説教を聞きに来てくれ」と熱く語っていた先輩がいました。宣言通り彼は卒業後すぐに神学校に入りましたが、途中で挫折し、神学校を中退したばかりか、教会からも離れてしまったそうです。そんな彼についてクリスチャンでない当時のメンバーの1人が、皮肉を込めて「結局自分の夢を挫折して、学生の時に『自分の教会に来い』なんて言った友人に、彼はどう責任をとるつもりか」と話していたのを聞いて、クリスチャンが本当に伝えるべきものについて改めて考えさせられました。当然のことですが、クリスチャンの伝えるものは自分の夢や経験、また教会のことでもなく、イエス・キリストご自身です。しかしいつの間にか私たちは、神様のことを語っているつもりで実は「自分」について宣伝してしまう危険があるのではないかと思いました。バプテスマのヨハネはイエス様よりも前に人々の前に現れたので、彼をメシヤだと勘違いした人がいたくらい注目されていましたが、ヨハネは自分の使命をはっきりと認識していたので、自分を宣伝することはありませんでした。私たちに与えられている使命も、キリストご自身の証人であることをいつも心にとめて、神様に全ての栄光をお返ししたいと思います。


2002年1月29日(火)マタイ3:4-6、列王記下1:1-8  

バプテスマのヨハネは、質素とか清貧といったレベルをはるかに超えて、ほとんど野人のように世俗とかかわらず、荒れ野で生活していました。神様とのコミュニケーションのためには最高の環境だったと思います。預言者としては神様から正しく聞き、正しく伝えるためにはそれほどまでに生活を純化する必要があったのでしょう。私たちはそのような生き方を求められているわけではありませんが、神様の声を正しく聞くこと、正しく伝えることを求められていることに変わりはありません。そのためには、日常生活にどっぷりつかって「飽食」したり、自分にとっての心地よい暮らしを追求したりすることが、時として神様とのコミュニケーションを妨げてしまうものだということは覚えておくことが必要だと思います。その意味では時々日常を離れ断食をしたり、静かに祈るために旅行するのもいいことだと思います。


2002年1月30日(水)マタイ3: 7-9 マタイ12:33-37 

私たちに求められている悔い改めとはどんなものでしょう?今日の聖書箇所では宗教指導者たちの口先だけの悔い改めが悪い例としてあげられています。形式だけの心のこもっていない悔い改めは主は喜ばれません。マタイ25:40「最も小さい者の一人にしたのはわたしにしたのです」とあるように自分より小さい弱い人に対しての失敗や人格を無視したことについてその人に本気で誤ることが主への悔い改めとなるのではないのでしょうか。私は時々子供に対して感情で怒ってしまうことがあります。その後反省して、子供に自分の弱さを正直に告げて、過ちについて謝るように心がけています。嬉しいことに子供はすぐに私を赦してくれるのです。このような私の悔い改めは神さまに喜ばれているだろうし、子供の寛大な赦してはまるで神様の赦しのようです。どんなに成長したクリスチャンであっても神様ではないので必ず失敗します。失敗してもその後悔い改めることによって必ず実を結ぶことができるのです。私たちにはこんなにすばらしい特権が与えられています。


2002年1月31日(木)マタイ3:10-12、ルカ 19:1-10 

人によって神様に対する印象はずいぶん違うようですが、あなたは神様をどう感じていますか?ある人は自分の不完全さのゆえに、神様が罰を与えるのではないかと恐れています。その人にとっての神様のイメージは「義」を徹底的に追及して妥協しない方なのです。一方では自分がどんなであっても赦し受け入れてくださっている、と感じている人がいます。その人にとっての神様のイメージは徹底的に赦す方なのでしょう。ところで聖書は神様がその両方のキャラクターを兼ね備えておられることを教えてくれます。神様は私たちを不完全さとその結果(こころざしに反してして犯してしまった罪など)だけで裁くことはなさらないと思います。神様が裁かれるのは心の態度とそれを反映した行動です。 イエス様のこの世界への登場は、人々を心のありようで、はっきり二つの種類に分けてしまいます。神様のもとに立ち返るか、離れ続けるかの意思確認です。それは不当な利益を得たり、他人を虐げたりしてきた者には、生き方の方向転換をするのかしないのか。苦しみの下にあった者にとってはさしのばされた解放の手にすがるか、背を向けるかの決断です。


2002年2月1日(金)マタイ3:13-15、ヨハネ13:1-8

イエス様の謙虚さはいつも私の目標です。どんな見返りも期待せずに心から誰かに仕えることができたとき、その人は私の中にイエス様を見出すことができるのだと思います。頭では分かっていても、純粋な心で仕えることは本当に難しいことです。祈ったからといって、すぐにできることではありません。日常の中で訓練され、少しずつできるようになることだと思います。仕えるとは「すぐ近くにいて必要に応えること」です。相手の本当の必要を見極めるにもやはり訓練が必要です。私は今、小さな子供との毎日の中で鍛えられています。本当の必要を見極め、それを満たすのです。うまく遊べない時、お腹がすいていないのに食べ物を欲しがるときなど私の助けが必要な場面では、大抵、私の心、愛情を求めているのだと分かります。私は完璧にはできませんが、いつもベストを尽くすように心がけています。持っているものを惜しみなく使ってその時々にベストを尽くすなら、少しずつでもイエス様という目標に向かって成長していけると思うのです。


2002年2月2日(土)マタイ3:16-17、イザヤ11:1-10

「聖霊を受ける」と聞いた時、まず何を思い浮かべるでしょうか?異言、預言、いやしなどの超自然的な力強い現れについての答えが多いと思います。しかし、このような神さまからのすばらしい賜物を期待するには、もう一つ大切なことが求められています。それは、「主を知り、畏れ敬う」ということです。自分の力で行っているかのような錯覚を起して高慢になるという罪に陥らないためです。 敬うということを考えた時、最近の高校生を対象にしたアンケート調査について思い出しました。「あなたは自分の両親を非常に尊敬しますか」という質問に対して、アメリカの高校生の80%、韓国では55%が、「はい」と答えたそうです。そして、日本では「はい」と答えた高校生はたったの10%でした。この結果には多くの社会的問題を含んでいると思いますが、親を尊敬できない人が他人や、まして神さまを尊敬し、その権威に従うことができるだろうかと考えさせられました。イエス様は、私たちを友と呼んでくださる親しい方ですが、同時に無限の力を持っておられる偉大な畏れ敬うべきお方です。主を畏れ敬うことは、主を愛することと同じくらい重要で、私たちの信仰の歩みに欠かすことができません。