メッセージノート 2/24/2002
ユアチャーチカヴェナント(パート1)
ヴィジョンを実現するための契約

私はユアチャーチのヴィジョンと目的に心から同意し主にある兄弟たち姉妹たちのなかに加わることを聖霊の導きであると確信して、このカヴェナントについて神様と教会のメンバーに対して誠実であること誓います。

1.わたしは

1) 彼においてのみ希望と赦しがあることを確信することによって

2) いつでも彼の私に対する計画に従うことによって

3) 人をすなどる漁師として人々に希望と平和の福音を伝えることによって

イエスを愛し、私の人生の主、また全てのものの造り主であることを信じ告白します
(イザヤ53:6 ヨハネ1:12テモテT1:15-16マタイ4:19)

2. わたしは

1) 聖霊によってリーダーが立てられていることを認めることを通して

2) 彼らのために毎日祈ることを通して

3) この教会の働きに神によって迎えられた彼らに従い支援することを通して

教会のリーダーを尊敬し、その導きに従います。
(コリントU8:5 テサロニケU3:1-2 ヘブライ13:17)

3.わたしは

1) ミニチャーチのメンバーになることによって

2) 教会の活動に参加しクリスチャンの交わりを大切にすることによって

3) 人々が聖められ癒される時は神様にゆだねて、ありのままに受け入れることによって

教会の人々を愛し、教会の家族と時を過ごします
(ヘブライ10:25 ペトロT1:22 ローマ15:7)

ディボーションノートディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年2月25日(月) ヨハネ1:9-18、1テモテ1:15-17 

パウロは、自分自身が罪人であり、またそのかしらであるとさえ言っています。このように、自分に罪があることを認めることは非常に重要なポイントです。キリストによる救いや赦しを体験するには、まずそこを通らなければならないからです。 日本人は罪の意識が非常に低いと言われています。キリスト教の背景が全くと言ってよいほどないばかりか、「恥」の文化と呼ばれる社会だからです。「恥」をかくことは嫌悪され、「罪」を直視ししたり、正直であることがむずかしい社会なのです。人様に迷惑をかけたことがないから、犯罪を犯していないから罪がないのではありません。神さまに背いて生きていたこと自体が罪なのです。そこに気づき、悔い改めるとき、私たちには、すばらしい主の恵みと赦しと希望を受けることができるのです。頭で理解することは難しいですが、「私は罪人です」と主の前にへりくだることができることほど幸いなことはありません。


2002年2月26日(火)マタイ4:18-22、マルコ16:15-18

何の為に自分は生きているのかという問いは、繰り返しやってくるものだと思います。私はキリストのために生きていることは分かっているはずなのに、時々壁に当たり「私は何の為に生きているのだろう・・・」と考えるようなときは大抵、自分の限られた能力や今の仕事の限界に目を向けてしまう時です。弟子達はイエス様に呼ばれて、全てを捨てて主に従いました。自分に与えられている本当の目的−人をすなどる漁師となること−を見い出したのです。しかし今日のマルコの箇所の少し前の節を読むと、不信仰とかたくなな心をとがめられた(v14)とあります。そんな弟子達にイエス様は「全世界にいって福音を宣べ伝えなさい(v15)」と語っています。そしてその後、弟子たちは至る所で福音を伝えたのです。誰かが以前「何をするかではなく、どう生きるかが大切」と言っていたのですが、私たちの究極の人生の目的は、キリストに従い、その愛と救いを宣べ伝えることであるのを、私たちがどこで何をしていようと繰り返し思い起こす必要があると感じました。そしてこの変わらない目的のために生きるなら、私たちの人生は決して空しくならないのだと思いました。


2002年2月27日(水) Uコリント8:1-7、ヘブライ13:7-17

昨年、フラメンコ教室へ通いはじめました。(←筆者がすぐに判ってしまいますね)教室では指導者が近くで手本を見せてくれます。分からない部分を何度も繰り返して教えてくれます。生徒の悪い癖などを指摘したり、上達のポイントをひとりひとりに合わせて教えたりしてくれます。一人でビデオなどを見てで習得しようとしてもこうはいかないので、やはり週に一度教室に通う必要があるなと感じています。なんだか教会に似ている部分があると思いませんか?クリスチャンとして成長したいと願う時、誰にでも学びの場と指導者が必要だと思うのですが、信仰の指導者を担っているのが牧師です。目に見えない、生き方を左右する信仰の指導者というのはとても責任のある仕事だと思います。私たちのイエス様との歩みの上達のために教えてくれます。時には厳しい指摘もあるかもしれませんが、信仰の指導者として立てられた牧師を信頼して従い、少しずつでも上手に歩めるようになりたいです。


2002年2月28日(木)2テサロニケ3:1-2、1コリント9:1-12

1コリント12章に「教会はキリストの体であり、ひとり一人は各器官である。各部分は互いにいたわり合う。」とあります。この御言葉は教会のあるべき姿をとても良く表しています。教会のかしらはイエスさまで、そこに集う全ての人は欠くことのできない器官なのです。牧師は神さまから特別に与えられた尊い仕事ですが、各器官の内のひとつなので、人を助けることもあれば、助けられることもあるのです。互いにいたわりながら教会を保っているのです。ユアーチャーチの牧師はいつも明るく強く見えますが、それは皆の祈りや励ましに支えられているからだと思います。しかし体の器官であれば病気にかかる可能性があるのです。霊的にも身体的にも健康でいられるように更に祈りたいと思います。


2002年3月1日(金) ヘブライ10:21-25、マタイ18:10-14

私はミニチャーチというコンセプトを知ったとき、今まで自分は何をしてきたのだろうという衝撃とこれこそが長い伝統の中で忘れられてきた、教会で一番大切な機能をになうものだ、という確信を覚えました。ユアチャーチは全体がミニチャーチといったスケールから始まった教会です。互いに祈りあい支えあい助け合いながら進んで来ました。教会に集う人々は多くなり、ミニチャーチに対する要望も多くなってきました。新しく教会に来られた人たちはみな自分のミニチャーチを探しています。今ミニチャーチの牧師が多くないので、ミニチャーチは不足しています。今までは実際にミニチャーチがなくても教会全体が小さくて、十分ミニチャーチの役割を果たしてこられましたが、これからはそういうわけにはいきません。教会に集うすべての人にふさわしいミニチャーチが与えられるように、ミニチャーチ牧師になる人が起こされるように祈り続けましょう。


2002年3月2日(土) 1ペトロ1:17-22、ローマ14:1-12 

ありのままの相手を受け入れることは口で言うほど簡単ではありません。教会ですら、いつの間にか同じような人だけが集まるようになり、中に属する人だけに快適なところになってしまうことがあります。今ユアチャーチに多くの人がビジターとしてこられ、そのまま通い続けている人が多いことはうれしいことです。そしてそれは教会が健康である証拠でもあります。ユアチャーチがいつまでも、人々をありのままで受け入れ続けることができるように、私たち一人一人がその魂をリフレッシュして進んでゆきたいものですね。今私たちは、子供たちのありのままをどう受け入れ教会の中で、どう育んでゆくのかの岐路に立たされています。大人も子供も主の前に重荷を下ろしてリフレッシュできる教会になりたいですね。祈って知恵を出し合いましょう。