*2002年3月24日メッセージノート*

命の原点(1)「十字架」

A パウロが伝えたもっとも大切なこと(1コリント15:3-6)

1) 預言されていた出来事(イザヤ53:5-12)


2) コインの裏と表のような「十字架」と「復活」の関係



B なぜ神様が私のために?(1コリント1:18)

1) 人間の視点から見た十字架


2) 神様の視点から見た十字架



C あなたも神様の赦しを受け入れよう・伝えよう(ヨハネ3:1-16)

1) 十字架の出来事の中で際立つ人の弱さと神の強さ(ヨハネ8:25-27)


2) 弱い「人」と強い「神」を再び結び合わせたイエス様(ヨハネ12:27-36)




メッセージのポイント

私たちの信じていることの中心は何でしょうか?ユアチャーチではミニチャーチが強調されています。その理由は「神様だけが本当の愛を与え、愛することができるようにしてくださる」ことを実感し実践できるようになるためです。そして「神様だけが本当の愛を与え、愛することができるようにしてくださる」ことの根拠は私たちの感覚ではなく「十字架と復活」という事実に基づいているのです。もし感覚に頼った信仰なら、愛は自分の状態しだいで高まったり、低くなったり、なくなってしまうかもしれません。でも私たちが愛することのできるのはあの2000年前の動かない事実があるからなのです。

ミニチャーチのためのヒント

1)イエス様はなぜ十字架にかかられたのですか?

2)それがなぜ2000年後に生きる私たちのためにもといえるのですか?

ディボーションノート

2002年3月25日(月) ヨハネによる福音書14章

心を騒がせること、おびえてしまうことに直面するとき、イエス様が私のそばにいてくださるという実感が持てることはなんて幸せなことでしょう。目に見えるさまざまなことはいともかんたんに私の心を襲い、立っていられないくらいに心は騒ぎ動揺するのです。何かが心配になれば想像はどんどん膨らんで不安で押しつぶされそうになります。でもそんなときに、イエス様はやさしく、しかし力強く語りかけてくださるのです。イエス様に「私はやがて捕らえられ十字架にかけられる」と言われた弟子たちの心境を想像してみました。ともに歩み、笑い、泣き、祈り、食事をされたイエス様が取り去られる。彼らは実際に目に見えるイエス様と歩んでいたのですからその悲しみは深く大きいものだったでしょう。でも「十字架を避けて和解の道はない。私は聖霊を送りいつでもあなたとともにいる」というイエス様の言葉だけを頼りに受難の日を迎え、暗黒の3日間を必死に祈りながら耐え、復活されたイエス様に出会うことができました。私たちもこの週、弟子たちのあの「最後の1週間」を思いつつ、あらためて十字架の恵みに感謝しましょう。

2002年3月26日(火) ヨハネによる福音書15章

人は誰でも何かの組織に所属している安心感を必要としています。暴走族などに入っている少年のほとんどは、何か邪悪な心を満たすために反社会的な組織に入ってしまったのではなく、家庭に恵まれず、孤独な自分を受け入れてくれるものとしてその中に入ってゆくのだそうです。会社などの自分の所属する組織の命令であれば、自分の良心に反して反社会な行動をとる大人たちに彼らを非難する資格はありません。私たちは家庭、学校、クラブ、会社などさまざまな組織に属しています。しかしその組織が自分に何を与え、組織は自分に何を期待しているのかをはっきりと見定めなければなりません。私たちの牧師が少なくとも2週に1回は強調するように教会はキリストの体です。私たちは教会がキリストの体であることを忘れると、人間の作った組織として限界を感じます。でもキリストの体である教会には神様がいつも養分を供給していてくださるのです。それは十字架にかかり、私たちの身代わりとして苦しむためにこの世界に来られたイエス様によって、私たちに与えられた特権です

2002年3月27日(水)ヨハネによる福音書16章

私はイエス様の完璧で罪の無い畏れ多い方という面を強く意識してしまい、親しさという面ではまだ不十分だと思っています。しかしイエス様に一歩近づいた経験をしているのでそれを書きたいと思います。マルコの福音書15章には十字架につけられたイエス様のことが書かれています。そこを読んでいる時34節のイエス様の「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という苦しみの言葉が生の声として聞こえた気がしました。十字架の光景が鮮明に見えて、イエス様の苦しみを思うことできたのです。死に直面していない私にはその恐怖と苦しみを完全に理解できないと思います。しかし、イエス様は神さまでありながら人間の肉体をもつことで、私以上の苦しい思いをしているとはっきり認識できました。その時にイエス様は私の苦しみを理解し共感し背負ってくれるのだとわかり、私の中では「ありがたく畏れ多い神さま」から「苦しみも喜びも分かち合える身近な神さま」に変化したのです。自身の言葉を通して、イエス様は私に近づいてきてくれました。これからもっと言葉に触れ、親しくなりたいと思います。

2002年3月28日(木) ヨハネによる福音書17章

 私にとって、ワーシップの時はイエス様の十字架を思い出し、心に刻むことができる時間です。意識してそうしているのではないのですが、神さまを想ってワーシップすると自然と十字架のイメージが心に浮かんでくるのです。そして、神さまに対して「ごめんなさい」と「ありがとう」の気持ちがどわぁーっと大きくなって、涙が出ます。そんな時は聖霊様が私の中にいてくださっているのだと感じるので、涙を止めようとしません。全ての国の人がいつの時代でも救われる方法として、イエス様が十字架にかかられたのは、神さまが人間を愛するゆえの究極のアイディアだと思います。けれどイエス様が生身の人間だったことを思うと、とても苦しくなります。イエス様は肉体的にも精神的にもそうとうの苦痛を受けたのです。私を愛するゆえに十字架の苦しみを受けてくださったことを繰り返し心に刻み、その愛に応えたいと願い、神様のみこころを求めて歩みたいと思います。

2002年3月29日(金) ヨハネによる福音書18章

ミッション・バラバというグループを知っている人は多いと思います。彼らは元々やくざでしたが、イエス様に出会い改心し、イエス様を本当の「親分」として現在では国内はもとより、海外にも遠征してキリストの愛を伝えています。このバラバとはヨハネの福音書18章の40節に出てくる強盗の名前から来ているのだそうです。本来なら十字架の上で処刑されるはずだった者なのに、イエス様が身替わりとなって死んで下さった・・・その愛を伝えるために今生かされているのはミッション・バラバのメンバーだけでなく、私たちも同じです。私は今日の箇所を読んで、イエス様を信じる前の私はユダヤ人の宗教指導者のようにイエス様の敵であったのに、魂の上ではバラバのように処刑を免れた者であることを改めて思いました。そしてイエス様の憐れみによって今も生かされているのだと思う時、この与えられた新しい命を精一杯、この世に生かされている限り神様のために燃やしていきたいと思いました。 

2002年3月30日(土) ヨハネによる福音書19章

 何の罪もないイエス様を、群集が「殺せ、殺せ。十字架につけろ。」と叫んでいる場面を読むとき、どのように感じるでしょうか。そんなひどいことをするなんて…。私には関係のないこと…。色々な反応があると思います。 私はあるクリスチャンの祈りを聞いて、十字架のこの出来事を自分のこととして受け取るようになりました。その人は「イエス様、どうぞ私を赦してください。あなたの手と足に釘を打ったのはこの私です。私の罪を赦してください…。」と涙を流して祈っていました。その時、イエス様の十字架上での言葉を思い出しました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。そして、彼らのうちの一人は私なのだと気づいたのです。この時から、イエス様の十字架上でのあがないによって、罪が赦され清められるということと、赦される恵みを本当に自分のものとして受け取ることができるようになりました。心砕かれ、悔い改めて祈るとき、神様は私たちを決してさげすまれません(詩篇51:17)。