*2002年4月7日メッセージノート*

なぜ私たちはAndyとMariをアフリカに送るのか?
(おびえていた弟子たちが宣教師となって全世界に出てゆくプロセスに学ぼう)
ヨハネによる福音書21、マルコによる福音書16:14-18

A 失望の中でもあなたを励ます神様
1) 失望や挫折は人を過去の生活パターンに引き戻す。(1-3)

2) イエス様はその人の心の状態にかなった方法で共にいてくれることを教えられる。(4-6)

B どのように主に従うのか?
1) いろいろな面でペテロより優れている弟子も少なくなかった(7-8)

2) 過去の失敗を忘れない、しかし恐れない(15-16)

3) 神様は神様を愛する者に、羊をゆだねる(17-19)

4) 自分に働きを知り、人と比較しない(20-23)

C ユアチャーチには理由がある(マルコによる福音書16:14-18)
1) この町に置かれていることも

2) 国籍や文化や人種の多様性に富んでいることも

3) 世界中に働きを広げようとしていることも

メッセージのポイント

ロバートを宣教師として送り出してから1年がたとうとしています。今週、真理とアンディーはケニヤの彼が始めた教会を訪問します。ユアチャーチのケニヤにおける将来の働きのために、ロバートを励まし、共に祈り、話し合うためです。ユアチャーチは初めから海外宣教の働きを神様にゆだねられた教会として歩んできました。スタッフのサラリーを確保することよりも、宣教の働きのためにささげることを優先してきました。神様は私たちのこの姿勢を祝福され、どんどん新しい働きを担わせてくださっています。それは私たちが宣教のために用いられたいという願いを持っていたからであることはいうまでもありませんが、それ以上に私たちが主を愛すること(礼拝すること)を最優先にしてきた結果なのです。

ミチャーチのためのヒントm
1) ペテロが一番の弟子とみなされていた理由は何ですか?
2) もし人に説明するとしたらあなたはユアチャーチをどんな教会だと表現しますか?



ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年4月8日(月) ヨハネによる福音書21:1-6、ルカによる福音書5:1-11

 初めて神さまのことを聞いたのは20代前半、何か夢中になれるものを探していたような時期でした。仕事で生活費を稼ぐこと以外に何か自分を磨けるようなこと、自分に自信がもてるようになることはないかなぁと、思いつくままに色々なことに手を出していました。「神さまはあなたを造られ、あなたをずっと愛している」というメッセージを聞いた時は、今まで聞いたこともない話、「愛してる」なんてドラマでしか聞いたことないよっていう気持ちでした。だから頭では遠い世界の話にしか聞こえなかったはずなのに、心の奥底のほうで何かが反応したようで、涙が出てしまったのです。その時から神さまが共にいてくださること、素晴らしい計画の中で私を導き、生きる目的を与えてくださっていることを感じています。もちろん色々な事が起きてくるので、落ち込んだりもします。でも神さまとの出会い─不思議な方法で私の魂に触れてくださったことと、その後どんな時も見放さずにいてくださることを想うと、神さまの使命を果たしたいという気持ちが新しくなります。 


2002年4月9日(火) ヨハネによる福音書21:7-14、マタイによる福音書14:22-33

 イエス様が水の上を歩いているのを見たら、その奇跡的な業に驚き、主をほめたたえるでしょう。そして畏れ多い思いを抱くでしょう。しかしペテロはなんとイエス様と同じ奇跡を自分にもやらせてくださいと頼みました。畏れ多いという思いではなく、自分もイエス様に近づきたい、真似をしたいという気持ちを抱きました。純粋で子供っぽいですよね。ペテロの発想と行動パターンは私の持っていない面なのでとても羨ましく思います。私の子供たちは私がやることを何でも真似したがります。幸い「パパはかっこいい、何でも出来てすごい、パパのようになりたい」と思っていてくれてるようです。これは親に対する信頼と好きだというい気持ちの現われだと思います。ペテロも同じで、イエス様が大好きでしょうがなかったのです。その気持ちが、彼の純粋な行動を起こさせたのでしょう。もちろんイエス様を愛している私ですが、ペテロを見ていると自分の愛の表現が上品過ぎたように思えてしまいます。もっとなりふりかまわず、ストレートにイエス様の近くにいたい、同じようになりたいということを表現し、行動したいと思わされました。


2002年4月10日(水) ヨハネによる福音書21:15-19、詩編34編

私たちが怖気付いて失敗しても、神様を悲しませる行いをしたとしても、もし私たちが主の前に心を砕いて主を慕い従おうとするなら、イエス様は必ず私たちを導いて用いて下さいます。イエス様の弟子のペテロは、湖の上を歩く時に強い風を恐れてしまったり(参考:マタイ14:28-31)、イエス様が十字架につけられる前には、イエス様を知らないとさえ言ってしまいました。また詩編の作者であるダビデも、自分の欲に負け、自分の罪を隠すために罪を重ねてしまいます(参考:サムエル記下11)。それでもこれらの人々が主に用いられる器とされたのは、彼らがもう一度主に立ち返っけたからです。私自身も、本当はイエス様に従いたいのに、自分の思いで行動した為にイエス様を悲しませたことが何度もありました。その度に神様に謝りましたが、もう赦してもらえないかもしれないと思ったこともありました。しかし主が私に語ってくださったことは「私はあなたを愛しているよ。あなたは私を愛しますか?」というメッセージでした。主は砕かれた心を受け入れてくださいます。そしてご自身を愛し続ける者にこそ、主は大切な羊をゆだねて「養いなさい」とおっしゃってくださるのです。



2002年4月11日(木) ヨハネによる福音書21:20-25、ルカによる福音書9:46-48

 イエス様の弟子たちの間にも人間くさいライバル意識や対抗心があったようです。ヨハネはイエス様から愛されていることに自信をもっていたので、ペテロは特にヨハネに対しては嫉妬心もあったかもしれません。何千年たっても変わらない私たち人間の姿です。私も、容姿端麗な人、頭脳明晰な人が自分の近くにいると、だめな自分とつい比べて羨ましいと思うことはよくあります。でも、クリスチャンになってからは、「私はイエス様から愛されている、そして、イエス様を愛している」といいうことが一番大切なこととわかったので、人と比べて劣等感をもったり、落ち込んだりすることがなくなりました。つい、人のことが気になってしまう時、今一度イエス様の顔を見上げながら、この言葉を思い出しましょう。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい。(22節)」



2002年4月12日(金) マルコによる福音書16:14-16

もし噂を沢山の人にひろめたいと思うなら、「これはあなただけに教える秘密だから他の人には言わないでね」と付け加えるといいと聞いたことがあります。あなたは人から聞かされた事を心の中にしまっておける方ですか?それともすぐに誰かに話さなくてはいられないタイプでしょうか?耳にしたこと目にしたことの中には、すぐに人に伝えなければならないこともあれば、慎重に心の中にとどめておかなければならないこともあります。まさにマーフィーの法則的で、私たちは言わなくてもいいことを口を滑らせてトラブルを招き、伝えなければならないことを伝えずに失敗をしてしまいます。復活されたイエス様が弟子たちに命じられた言葉 「全世界に出て行って福音を伝えよ」 はそれから忠実に守られ2000年後の今も信じる者によって実行されています。ユアチャーチもマーフィーの法則に負けるわけにはいきません。今週末から月曜にかけてケニアでなされるミニストリーのために祈りましょう。


2002年4月13日(土) マルコによる福音書16:17-18

あなたは呪術、魔術をどう考えていますか?それは映画の中のことに過ぎない、といった受け止め方がほとんどですが、クリスチャンではない知人の中には、特に若い世代の人々は、金縛りとか霊視、死者の霊が現れる(見える)といったことを信じている人が結構多くいます。トリックなしの魔術がひろく信じられている国々も沢山あります。私はまだトリックなしと確信できる魔術を目にしたことはありませんし、魔術と呼ばれるものの多くがトリックであると思っていますが、呪術、魔術の存在が多くの人々に影響を与えていることを否定しません。サタンの力を安く見積もるのは危険なことです。そのような国に使わされた宣教師は、彼らと同じ土俵に立って霊の戦いを繰り広げなければ宣教が成り立たちません。私たちは聖霊の賜物によってサタンに立ち向かうことができます。悪霊の追い出し、預言、異言、癒し、不思議なわざなど聖書に記されている賜物を自分の考えで否定してしまうことは、非常時に役立つ取って置きの武器を放棄することになってしまいます。