*2002年4月21日メッセージノート*

「今でもイエス様は人を癒すの?」

ルカによる福音書4:31-44

(なぜイエスは悪霊を追い出し、病を癒したのか?)

A 権 威 (31-37、イザヤ9:1-6、使徒言行録19:11-20/1:3-8)

1)本当の権威

2)本当の権威から来る力

3)信じる者にも与えられている権威と力


B 憐れみ (38-39、マタイ9:1-8、マルコ1:40-45)

1) イエス様の心

2)もっと期待しよう

3)恵みのあるところに敵も働く

C 神の国 (42-44、マタイ10:7-8)

1)イエス様の使命

2)私たちがするべきこと


メッセージのポイント

「癒しや悪霊の追い出し」はイエス様の時代だけの出来事であって今は求める必要は無いのではないか、という意見を耳にします。ユアチャーチの礼拝の中のミニストリータイムのような時を持たない教会も多いのです。どんな時代であれイエス様がなさり、また弟子たちに行うように命じたことが、期間限定であったとは聖書のどこを探しても見出すことはできません。主が再び来られるまで有効なのです。もっともっと主に期待してもいいのではないでしょうか?イエス様は今でも自然科学では解決できない多くの問題の答えを持っておられます。ただ、ひとつ心に留めておきたいことは、このことがあなたの「信仰の力で癒す」のではなく「主が癒してくださる」という信仰を持って「主の癒し」に用いられるということです。この二つの考え方は表面的には似ていても、根本的に異なっています。前者は自分中心、人間中心の癒しの働きであって神様の目に正しいものではありません。それらは極端なカルトで頻繁におこなわれ社会問題になるようなものと同質です。自分の栄光や利益のためではなく、主の栄光と憐れみにわざが現れるように癒しのミニストリーの働きを進めてゆきましょう。

ミニチャーチのためのヒント

1)ミニストリータイムの恵みについてシェアしてください

2)あなたのなかでは癒しと医療の関係をどう調和させていますか?



ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年4月22日(月)ルカによる福音書4:31-32、イザヤ9:1-6

私は現在開発途上国の子どもたちを支援するNGOで働いていますが、私の役割は日本国内で支援者の輪を広げたり啓発するために広告やDM、ニュースレターなどの原稿を執筆・編集することです。この仕事を始めた最初の頃、他のアジア諸国のパートナーシップオフィスと合同で行ったワークショップに出席した際に教えられたことで、今も忘れられないことがあります。それは「ストーリーを伝えるときは、筆者自身がそれに対して感動、または憤りを感じ、心を揺さぶられていなければ人には伝わらない」ということです。当たり前のことですが、普段忘れがちなことなのではないかと思いました。というのは、つい手法や自分の持っている知識で相手を納得させようと考えてしまうからです。私たちがイエス様について人に伝えるときはどうでしょうか?聖書に書かれていることを理路整然と説明するのではなく、その聖書に書かれているイエス様の愛がこの「私」におよび、素晴らしい業を現してくださったことを証言するとき、そこには神様の権威があり、周りの人に神様の愛が真実であることが伝わるのだと思います。主の素晴らしさをもっと体験し、生きて働いておられる神様のことを大胆に証ししていきましょう!


2002年4月23日(火) ルカによる福音書4:33-34、使徒言行録19:11-20

悪霊にとりつかれた人に会ったことがあります。その人は霊的に支配され、常に暗い顔をして怯えているようでした。しかしイエス様は彼を悪霊から守り解放し、彼は本来の生き生きとした顔を取り戻すことができました。悪霊はイエス様を恐れる存在です。悪霊はイエス様の権威にとうてい対抗することができないからです。私たちはイエス様につながっていれさえすれば、悪霊を恐れること必要はないのです。その後、彼は福音を述べ伝える者として大変祝福され、用いられています。今の彼自身とそのはたらきをを見ると、イエス様の力を賞賛せずにはいられません。


2002年4月24日(水) ルカによる福音書4:35-37、使徒言行録1:3-8

私はまだ今日の聖書箇所のイエス様のように、悪霊に命令するような経験がほとんどありません。けれど、ミニストリーで神様の権威が確かに与えられていると感じたことはあります。誰かのために本当に真剣に純粋に愛を持って祈る時、聖霊さまが助けてくださるのです。神様の力と神様から与えられる祈りの言葉でミニストリーをするので、私の力ではないことが自分でよく分かります。自分の能力で相手を理解しようとか、その人の問題を解決する術を知ろうとしたときにはすぐに限界を感じます。何度もそういう失敗をしては、何度も気づかされています。「父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)とあるように、私たちは繰り返し聖霊を求める必要があります。時には少し待つ必要があるかもしれません。ミニストリーに臨むときあせらず、急がず、聖霊に助けを求めたいと思います。聖霊の力を受けるならだれでも「地の果てにいたるまで、私の証人となる」(使徒1:8)ほどの働きができるのです。


2002年4月25日(木) ルカによる福音書4:38-39、マタイによる福音書9:1-8

 聖書に書かれているイエス様の癒しのミニストリーをとおして二つの特質を知ることができます。ひとつは、イエス様の愛と憐れみです。イエス様が人々を癒されるとき、いつもその第一の動機は愛と憐れみでした。ご自分の利益や名誉のためではありませんでした。そして、もうひとつの特質はイエス様の権威です。病や悪霊に向かって「〜してください」とお願いしたのではありません。悪霊に対しては、「黙れ」、「出て行け」と厳しい口調で命じ、別の箇所では「熱をしかりつけた」と表現されています。そして、病が癒されるのを見た人々はその権威に驚き神をたたえました。そして、イエス様の癒しの業には必ず、本来の目的である福音を伝えることが伴なっていました。つまり、必ず父なる神にご栄光をおかえしするということです。私たち自身がミニストリーをするとき、常に、すべてのことにおいて、イエス様を手本としていきたいです。


2002年4月26日(金) ルカによる福音書4:40-41、マルコ1:40-45

ここに私たちの礼拝のミニストリータイムの原点があるのです。ミニストリーはほかの場所や時間にできないものではありません。自分で、また家族と共に癒しを祈ることもできます。でも主がしに打ち勝って復活されたことを記念する礼拝の中で、多くの人によってミニストリーが行われることは、病む者、悩む者、悲しむ者にとって大きな期待を生みます。そのような中で神様が即座に祈りに答えてくださり、癒された者だけではなく、そこにいたみんながとても励まされたことを体験してきました。ですから私はミニストリータイムがもっともっと積極的に用いられたらいいなあと思っています。時間の長い短いは本質的な問題ではありませんが、お昼を食べるのも忘れてミニストリーをしている人々がいてもいいと思うのです。ワーシップタイムもメッセージタイムもミニストリータイムももっともっと期待を持ってワクワクしながら臨んでほしいとイエス様は願っておられるのではないでしょうか? 


2002年4月27日(土) ルカによる福音書4:42-44、マタイ10:7-8

「名は体を現す」と言われますが、ユアチャーチはどうでしょうか?Your churchの You とは私たちにとって神様であり、まだ教会に属していない人であり、また自分以外のすべての人です。誰もイエス様を独り占めすることはできません。むしろイエス様にできるだけ多くの人に紹介するのが私たちの務めです。「ユアチャーチ」の名はこのことを忘れないためにつけられました。しかし世の中にはマイ○○、マイ××、と自分のものであることを主張する声のほうが多いのです。そして教会にも中にいる自分たちのことしか考えない「マイチャーチ体質」がはびこりやすいのです。ケニヤの教会はやはりこのコンセプトを教会の名としました。C.O.B.T.Y. (Consider Others Better than Yourselves) という名前です。私たちもイエス様の言葉に習って、イエス様を独り占めする教会ではなくイエス様を送り出す教会になりましょう。