*2002年5月5日メッセージノート*

2002年5月5日

「聖書で子育て」 -こどもの日特別メッセージ

A 社会の子供に対する扱いは今も昔も変わらない

1)一人格として認められにくい

2)律法(法律)を守る義務はない存在

3)弱者としてさまざまなことで犠牲になりやすい


B 体罰と児童虐待の違い

1)児童虐待

2)体罰


C イエス様はどう思い、どうされたか?

1)おさなごはなぜ神の国にふさわしいのか?

2)どうしたら信仰的な意味で幼子になれるか?


メッセージのポイント

イエス様が教える子どものような信仰とは、そうではなかった心を入れ換えて、自分を低くし、小さな者弱い者を受け入れることです。ユダヤ教社会では女性や子供は男性、大人の保護を必要とする、男性の成人より劣った存在とみられていました。残念なことにわたしたちの関心は(私たちの中で誰が一番優れているか)ということに向きがちです。でも主の弟子でありたいなら、この思いは捨ててしまわなければなりません。キリストの体、教会の中では子供は大人のおまけではなく、体の一部であり、一人の人格として扱われるべき存在なのです。小さな子供をひとりの人格として認め、尊重する心がなければ、そのような者を愛される神様を受け入れることにはなりません。神様の視線は、実は上から見下ろすようなものではなく、へりくだって、その人と同じ高さになって慈しむものです。

ミニチャーチのためのヒント

1) なぜ弟子たちは、子供をイエス様のところにを連れてきた親を叱ったのでしょうか?

2)なぜイエス様は親たちを叱った弟子たちに憤ったのでしょうか?



ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年5月6日(月)マタイによる福音書18:1-5

自分が人に仕えるときに常に純粋な心を持っているかは疑問です。私をはじめ大人は人を助ける時に、人を選んだり、見返りを期待したり、また評価されることを意識したりする傾向があると思います。しかし子供たちは大人に比べ心が純粋で、ただ優しい気持ちから励ましの言葉をかけたり、人を助けたりできると思います。できることが大人よりも小さいとしても、子供たちの心とその行動を見ると感動してしまいます。イエス様は私たちに子供のように自分を低くし悔い改めなさいと言っています。子供のような純粋な気持ちを持っていて欲しいと私たちに願っているのです。しかし純粋さが薄れ、打算的な私の心はもう自分ではどうしようもできなくなっています。それを変えるには、神様に頼るしか方法はありません。人の心を変えられるの神様に祈り期待し、子供のような心に少しでも近づきたいと思います。


2002年5月7日(火)マタイ19:13-15、ヨハネ6:1-13
イエス様が生きていた当時のユダヤ教社会では、女性や子どもは男性の成人より劣った存在と見られていたようです。そのような背景から、イエス様の弟子たちがマタイ19:13やヨハネ6:9にあるような態度を子ども達に取ったと理解できますが、現在の日本の社会でも、ここまであからさまでないにしても、大人の子どもに対する態度に何か共通点を感じてしまいます。それは、「どうせ子どもだから」という見下した態度です。しかしイエス様はそれとは全く逆の態度を子どもたちに対して取られました。神様の目から見れば、子どもは大人と同じように価値があり、多くの賜物や潜在能力を秘めている存在です。例えばヨハネ6:9に出てくるあの少年の持っていた2匹の魚と5つのパンは、大人の目からは取るに足らないものだったのでしょうが、イエス様は彼の純粋な心を見て、彼の持っていた小さなものも大いに用いたと思うのです。子ども達は主に愛されているだけでなく、用いられる存在であることを心に留めて、私もイエス様のように子どもたちに接していきたいと思いました。


2002年5月8日(水) マルコによる福音書9:33-37

もう誰とも比べなくていい、私は私らしく神様に仕える道があるのだと知ったときの喜びはとても大きなものでした。物心がついてから、協調性という名のもとに、個性を隠しみんなと一緒であることを求められてきました。そして、みんなと同じように努力しても、評価され成績という形でレッテルを貼られるのです。人間の弱さに加えて、大半の人がこのような状況で育つのですから、━誰が一番か━と評価、順位を気にするのは当たり前かもしれません。けれど神様はだれが優れているかなどと気にするのではなく、「すべての人に仕える者になりなさい(マルコ9:35b)」と繰り返し私に教えてくださいます。なんど教えられても、自分自身や人を比べては優越感と劣等感をいったりきたりしてしまうのですが、神様を信頼し、このことから解放されることを祈っている限りは必ず神様が私の思いを変えてくださるのです。忍耐強い神様に感謝する毎日です。


2002年5月9日(木) マルコによる福音書10:13-16、箴言13:24

私が司式した結婚式でこんなことがありました。4歳ぐらいのリングボーイがリハーサルの最中にやりたくないと泣き出したのです。一緒にいたお母さんは初めは口で励ましていたのですが、やがて作戦を変えて、やったら何かを買ってあげると言い出しました。それでもその子が拒絶するのでついにお母さんは怒って「やらないんなら、今晩ご飯抜き!」と脅かします。それでもやりたくないものはやりたくない。このお母さんは子供の人格を認めていない典型です。リングボーイは猿回しの芸ではありません。やらなければ彼の人生が開けないというわけでもありません。大勢の大人の中を歩くのを恐れるのは子供としては正常な神経だと思います。餌にも鞭にも屈しなかった彼に私は心の中で「いいぞ」と応援しました。キリストの体、教会の中では子供は大人のおまけではなく、体の一部であり、一人の人格として扱われる必要があります。聖書の勧める鞭はこのような「飴と鞭」の鞭ではありません。それはルールを破り口で言われても聞けない時に与えるものです


2002年5月10日(金) ルカによる福音書9:46-48 

私は、神さまの愛を知らなければ、子供を一人の人格として尊び、同じ目線に立つということができなかったろうと思います。そして、自分が実際に子供を育てる以前は、教会に来ている子供たちのために真剣に心を留めることはほとんどありませんでした。しかし、子育てが始まり、信仰を伝えていくという親としての大きな責任を担ったとき、自然に教会に集う他の子供たちのためにも心が向き、祈るようになりました。多くの場面で、イエス様は、子供の手をとったり、抱き寄せたり、語る言葉の中に、その愛と慈しみを表現されておられます。ユアチャーチにおける子供たちへのミニストリーはまだまだ試行錯誤の状態ですが、イエス様がいつも私たちの手本です。まず子供たちをそのままで受け入れ、愛することが原点であると改めて教えられました。


2002年5月11日(土) ルカによる福音書ルカ18:15-17、エフェソ6:1-4

ここではイエス様に小さな子供たちがまとわりつくようにやってきただけではなく、おとなが「乳飲み子」までもつれてきたことがわかります。イエス様は乳飲み子を呼び寄せられました。教会は誰のものでしょうか?大人たちがここは「ユアチャーチ」という時、ユアチャーチのYOUには子供たちが含まれています。子供たちは、機嫌を悪くして泣くために教会に来ているのでも、しかられてすねるために来ているのでもありません。もう少し大きくなった小学生や中学生は、親が来ているから強制的に来させられているのではありません。赤ちゃんは赤ちゃんなりに、乳飲み子は乳飲み子なりに、小学生、中学生、高校生はそれなりにイエス様に会いたくてチャペルに集っているというのが健康的な教会の姿だと思いませんか?私はそのような教会、日曜礼拝がささげられるように、大人たちはもっともっと祈り、知恵を絞って行かなければと思うのです。