*2002年5月12日メッセージノート*

ママカニサ(教会のお母さんたち)

A 子供は主のものであるという認識

1)私は主のはしためです。お言葉のとおりに、この身に成りますように 

−母マリア


2)主の御前に心からの願いを注ぎだしておりました 

−ハンナ(サムエルの母)

B 母の大胆な信仰

1)それが良く出る場合−カナンの女の信仰(マタイ15:21-28)


2)悪く出る場合−ヤコブとヨハネの母(マタイ20:20-28)



C ママカニサは牧師婦人だけではない

1)私の母とは誰か(中略)見なさい。ここにわたしの母、私の兄弟がいる。

誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である

(マタイ12:46-50)

2)ママカニサになろう

3)ママカニサを支えよう



メッセージのポイント

母の子供を守る強さ、子供のための自己犠牲の態度は父親には真似できないものがあります。その反面で夫婦の関係を損なうほど子供との関係が密接すぎるといった問題も出てきています。良い母の条件はまず第一に主の良い弟子となるということです。教会の母たち(ママカニサ)には大きな責任が与えられています。自分の子供のためを育てる、世の中のママたちのお手本となる、そしてクリスチャンホームを支えてゆくという責任です。教会の他のメンバーは彼女たちのために祈ること、励ますこと、慰めることが求められています。


ミニチャーチのためのヒント

1) 聖書の母たちの信仰で一番見習いたいのはどのようなところです?

2) クリスチャンである母親には子育てに関してどんな失敗の恐れがあるでしょうか?

3) あなたはママカニサたちをどう応援しますか?


ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。



2002年5月13日(月) ルツ1:8-18、4:13-17

自分自身が最愛の人を失い悲しみにくれているときに、果たして他人に気遣いできるでしょうか。たいていの人は、自分の幸せを追求したり、他人の優しさや慰めを期待するのではないでしょうか。ルツは夫を失ったにも関わらず、姑のナオミを憐れみ自分の幸せを顧みずナオミに仕える人生を選びました。ルツの愛情と行動は神の愛に他なりません。彼女は自分に注がれる神様の愛を充分に受け取っていたので、その愛を示すことができるのです。私は自分が困難な状況にあったり、悩みを抱えていたり、忙しいと自分のことしか考えなくなり、他人を思いやるような余裕を持てなくなってしまいます。こういうときにこそルツのように神様の愛を感じ、人に仕える者となりたいと思います。ルツのような大きな決断はできませんが、主に願えば少しずつ変えられると信じます。



2002年5月14日(火)サムエル記上1:1-2:26

神様に出会う前は、自分の向上のためにと目標を決めて努力したり、目標に達成できず落ち込んだりを繰り返していました。こんな人になりたい、こんなことを身につけたい、こんな習慣をもちたいなどと理想を掲げるのですが、そんなに簡単になれるわけがありません。神様に出会い、神様が求めておられることはただ神様を信頼し、従うことだと知りました。今まで自分で設定した具体的な目標はどれも中途半端になっていましたが、神様が教えてくださるこの目標ならずっと目指して生きていけそうだと、とても嬉しかったのを覚えています。神様が私に願っておられる成長や目標はそのまま私が育てている子供たちに伝えなければならないことです。子育ての目標の中で、「神様に従い仕えることができるように成長して欲しい」ということが何よりも優先していなければなりません。そのために最善の方法を選ぶのです。まったく違う価値観を持った人々に囲まれて過ごすことが多いので、ともすると優先順位を間違えてしまいそうになりますが、聖書にかえり確認しつつ日々過ごしたいと思います。


2002年5月15日(水) マタイによる福音書 20:20-28

4月から公立小中学校で完全週休二日制が始まりましたが、世の親達の間で最も懸念されていることは学力の低下のようです。私立に比べ公立校の生徒は受験戦争で負けてしまうとインタビューで話していた母親もいました。受験戦争を勝ち抜いて良い大学に入り、大企業に就職するという、親が考える子どもの幸福論は、昔も今もあまり変わらないな、とがっくりしてしまいます。今日の箇所に出てくるヤコブとヨハネの母親の関心事も、状況は異なるにせよ子ども達の地位と言う点では、現在の日本の母親達と共通するところがあると感じました。親であれば、多かれ少なかれ子どもに地位や財産を望むのは自然なことですが、イエス様の子ども達に対する御心は、目に見えるところの地位や財産をはるかに超えたところにあります。子どもは親の所有物ではなく、神様が託してくださった存在なので、彼らがご自分に従って歩めるように親が育てることが期待されています。そのため、私達は自分の願いを子どもに託すのでなく、神様の御心が子ども達の上になるように願うべきだと思います。


2002年5月16日(木) ルカによる福音書 1:26-45、2:41-52

 自分のお腹の子供が神の子、救い主であるということだけでも、受け入れがたい事でしょうが、その子を育てるというのは、本当に想像もつかないほどの大きな役割です。旅先で、自分の子が行方不明になったとしたら、マリアのような反応をするのは普通のことのように思えます。しかし、両親でさえイエス様を完全には理解していなかったのです。マリアは、おそらく何度もこのような失敗や失言を繰り返し、イエス様を育てていったのでしょう。彼女にそのことを成し遂げることができたのは、おそらく、ただ神さまに信頼し、祈り、聞き従っていたからではないでしょうか。神さまがご自分のひとり子をマリアとヨセフに委ねたように、一人一人の子供たちをその両親の手に委ねておられます。神さまが私たちを信頼して子供を預けてくださっているのですから、私たちが子供を育てる時、マリアのように神さまに信頼して、聞き従うことができるよう日々祈る必要があります。


2002年5月17日(金) 士師記13:1-8、ルカによる福音書 1:5-25

 神様の働きを担う特別な使命を持った人の誕生物語が聖書にはいくつか出てきます。ユアチャーチはシングルの人も多いですからピンと来ないかも知れませんが、自分の子供を神様の御心にかなって育てるということは、なかなか難しいことです。みなさんの(もしかしたらまだ見ぬ)子供たちの将来のために、どのような備えをしたらよいのでしょうか?伝道者の子は当然牧師や宣教師になるのだろうという考えを持っている人もいますが、それは神様の考えとは違うことも多いのです。私たちの場合、幸か不幸かザカリアやエリザベツのようには直接聞かせてはいただけませんでしたから、将来神様が子供たちをどう召されてもよいように、できるだけ可能性が広がるような教育をと心がけてきました。子供たちにサムソンや、ヨハネのような活躍を期待しているわけではありません。どのような仕事に就いたとしても小さな「神の人」としてあゆんでもらえたら、私たちは神様に彼らを教育するという責任を果たせたと言えると思っています 


2002年5月18日(土) 創世記25:19-34、27:1-40

 ヤコブの母リベカは今はやりのお受験ママか伝統芸能宗家ママの元祖のような人ですね。イサクと結婚する前はとても優しい少女だったようですが、母となってからは双子の息子のうちのヤコブを愛し、彼にユダヤ一族の三代目族長の跡目を襲わせようと必死です。イサクはエサウの方を愛したと書かれています。込み入った事情があったのかもしれませんが聖書は触れていません。遠慮を美徳とするこの国にあっては、リベカとヤコブの人を押しのけてまで祝福を追い求める態度はあまり人気がないかもしれません。でも神様は、その祝福を安く見積もったエサウを次期族長には望まれませんでした。祝福を求めることは自分のためではありません。神様の働きにもっともっとできるようになるために願うのです。その意味で祝福を求めることは大切です。けれどももっと大切なことは、それが自分を満足させるためではなく、与えるための祝福であると自覚することです