*2002年6月9日 メッセージノート*
いやされることを求めよう ヨハネ5:1-18
主はいやす方、しかし・・・
1) すべての人がいやされるわけではない (2-5)
2) いやされるために必要なのは信頼だけ (6-9)
2) 肉体のいやしは福音の中心ではない (14、 ヤコブ5:14-20)
それでもいやされることを求めよう
1) 願わなければ始まらない (6-7)
3) 神様は必ず応えてくださる (16-18、マルコ12:28-34)
*メッセージのポイント*
「いやし」に関してキリスト教会の中ではさまざまな見解があります。聖書にはいやしに関する記事が多く記されています。そしてそれは決して一様ではありません。信仰によるいやしのさまざまな現われは、こうでなければいけないといった人間側の都合に左右されずに、み言葉から直接触れることが大切です
*ミニチャーチのためのヒント*
1) ユアチャーチは「いやし」についてどのような見解を持っていると思いますか?
2) 聖書の中でどの癒しの物語が印象に残っていますか?シェアしてください
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
2002年6月10日(月) 1-4、詩編142
4節は後代の写字者(copyist) の加筆、なぜ多くの人が池の周りで待っていたかの説明、新共同訳聖書ではヨハネによる福音書の最後のページに載っています。当時の医療技術ではどうすることもできず見捨てられた人々が神様の奇跡だけを頼りに待ち続けていました
2002年6月11日(火) 5-7、ルカ19:1-10
この人の人生で最も重要な出会いの瞬間です。38年の間、歩くこともできず誰も助けの手を伸ばしてはもらえなかった彼に、イエス様は自分から近づかれました。
2002年6月12日(水) 8-9、ルカ4:31-37
イエス様の言葉にはなんと大きな権威があるのでしょうか、長い間立ったこともない人が歩き出そうと思ったのです。ほかの誰かの言葉では、立ち上がろうとも思わなかったでしょう。そしてそれに応えて立とうとしたときに大きな力が彼に働いたのです。
2002年6月13日(木) 10-13、マタイ12:1-14
ユダヤ教の律法は生活の細部に及びます。神様の偉大なみわざを覚え、疲れる労働は控えて、神様との交わり、そして神様が与えて下さった愛する人々との交わりをするために神様が定めてくださった安息の定めも、愛という本質から一人歩きして規則のための規則のようになってしまいました。
2002年6月14日(金) 14-15、ヤコブ5:14-20
ここでのイエス様の言葉によれば、この人は病気に苦しんでいただけでなく、やはり長い間何らかの神様に喜ばれない罪を犯していたようです。罪の結果の病なのか、あるいは病の苦しみが犯させたのかはわかりませんが、ここでも永遠の救いに至らなければ、病が癒されても意味がないことがわかります
2002年6月15日(土)16-18、マルコ12:28-34
神様の意思は人間の伝統によって曲げられてしまうだけでなく、その伝統に逆らうものは神様に逆らうものとして攻撃されます。このことはユダヤ教の歴史の中でだけ起こってきたことではありません。キリスト教の歴史にも同じことが見られます。信仰の本質は戒律を守ることではなく、御心を行うことです