2003年6月1日メッセージノート
イエス様はなぜ癒してくださるのでしょうか?(Mat 8:1-17)
現代の聖書では福音書は約3800の節に分けられています。そのうち約730節を費やし、およそ40例の癒しが記されています。私たちに与えられた神様のことば「聖書」その中でも中心である「福音書」のおよそ20%が癒しについて書かれたものだということになります。そのことは「信仰による癒し」が私たちに対する神様からの重要なメッセージであることを物語っています。現代のキリスト教会の中では、ここまで医療が発達した今日、癒しというのは福音書や使徒言行録の時代のものであって、いまの時代に求めることは間違っていると考えている人もいます。
イエス様は「癒しなさい」と命じておられます。癒しは福音書の時代の期間限定の恵みではありません。私自身が四半世紀のクリスチャンとしての歩みの中で、癒されること、癒すことを体験してきました。イエス様今も皆さんに癒される恵み、癒す恵みを体験してもらいたいと願っておられます
今朝の一回のメッセージでは癒しについて語りつくすことは到底できませんが、イエス様が続けてなさった3つの癒しの出来事から、癒しについての大切な教えを憶えたいと思います。始めに1−4節を読んでみましょう
重い皮膚病にかかった人のケース(8:1-4, Mk1:40-45, Lk 5:12-16)
1) 動機=深い憐れみ
この人はひどい肉体の苦しみに耐えていただけではありません。この病気にかかるということは汚れた者として社会から見放されることを意味していました。自分が町を歩くときには、他の人が自分に触れないように「私は汚れています。私に近づかないでください」と叫んで歩かなければなりませんでした。みなさんの聖書には「らい病」と書かれているかもしれません。今ではよい薬ができて容易に完治できる病気ですが、当時は伝染性のある不治の病として恐れられていました。日本でも業病(先祖の悪い行いの結果、もたらされる病)とされ差別と偏見に基づく法律が1999年まで続いていて、皆さんが知っているとおり最近やっと裁判で患者さんたちの名誉は回復されましたが、実際の苦しみは続いているようです。その名が患者や元患者を今だに偏見で苦しめている事実が、病原菌の発見者の名にちなんでハンセン病と言い替えるマナーをつくったのです。
この病に限らず多くの場合、病は体が苦しいだけではなく心・魂の痛みをもたらします。多くの人は周りから慰めや助けではなく、偏見や差別によってますます疎外されてしまいます。この人がいつ発病したのかは書かれてはいませんが、今までは彼に触れた人は誰もいなかったのです。なぜなら当時の社会は彼を「神様から見捨てられた者」とみなしており、触れれば自分にもうつって自分もまた「神様から見捨てられた者」となってしまうことを恐れたのです。でもイエス様は彼を「恐るべき者」ではなく「憐れみを必要としている者」として近づかれ手を触れられたのです。イエス様のいやしの動機は決して自分の宣教を宣伝するためのもの利益を得るためのものではありませんでした。それは私たちが癒しにかかわるときにも求められていることです。癒すことはその人から何か見返りを期待するものではありません。憐れみは神様の本質「見返りを求めない愛」の目に見えるひとつの形です。
2) 癒しは肉体だけでなく魂をも解放する
イエス様がそうであったように、癒しは単に症状をなくすことには止まらず。その人の人間関係の破れを回復します。イエス様はこの病気のために友のいなかったこの人の友となられました。イエス様の友となることから人間関係の回復が始まるのです。
それでは5節から13節までを読んでみましょう
百人隊長の僕のケース(8:5-13, Lk 7:1-10)
1) 癒す権威と力
この箇所から私たちは、イエス様の持つ権威と力が癒しとして現れるということを知ることができます。この人は自分の僕の病に心を痛め憐れみの心を持っていました。そしてイエス様なら彼を癒してくださると確信していたのです。そして彼の確信は間違ってはいませんでした。不思議なことに百人隊の隊長は「イエス様に来てください」 とは言いませんでした。イエス様がその場に行くまでもなく、癒しを保障してくださる言葉だけで、癒されると信じていたからです。イエス様はこれこそ信仰の良いお手本だとおっしゃいました。
2) 私たちの信仰の役割
ここで神様からの権威は信じる者に分け与えられ、その力はイエス様がいないところでも現される事が分かりました。皆さん一人一人にこの権威が与えられていることを知っていますか?与えられているのに力を現さない人がなんと多いことでしょうか。私はこのことを理解してからは幼かったころの子供たちにもしばしば癒しの祈りをしてもらったことがあります。神様は確かに彼らを通して働かれたのです。神様は偉い人、伝道者、牧師だけを通して働かれる誤解があるようです。まだ牧師としての歩みを始めたばかりのころ、ある宣教師の通訳として集まりに招かれたことがあります。会が終わるころ司会者は、それでは癒しを求めている方は今日の先生方(つまりその宣教師と私)に祈ってもらいましょうといいました。人々はぞろぞろと前に出てきます。
始めはその宣教師が祈るのを通訳していたのですが、人が多すぎてこのままでは一晩中かかりそうだ、と宣教師は私に向かって「こちら側の半分の人はあなたが祈ってあげてください」といわれたのです。その数日前に私は自分の祈りを通して目の前で人が即座に癒された経験をしていたので、「よーし」と張り切ってミニストリーを始めようとしたのですが、私の側にいた人々は少しずつ、宣教師のほうに移ってゆくのです。明らかに「若造の通訳になんか祈られたくない」という感じです。かまわず一人捕まえて祈り始めました。彼はしばらく我慢していたのですが、ついにこう口を開きました「あのー私やっぱりあの先生に祈ってもらいたいんですけど」。
今では私の立場は逆で、祈ってくださいといわれるときにはできるだけ自分ではなく信頼している誰かに依頼するのです。それが自信になり、育てることになるからです。でも後から「永原先生は冷たい、人に頼んで自分では祈ってくれない」と文句を言われることもあります。そういうことを言うのは決まって私のことを「先生」と呼ぶ人なのですが。本当は教会に来ている子供たちにもさせたい位ですが、後でなんといわれるか分からないので我慢しています。でも本当は神様は彼らを素晴らしく用いてくださるはずです。
それでは最後にペトロの家で行われた癒しについて考えて見ましょう。14−17節を読みましょう
ペテロの家でのケース(8:14-17, Mk1:29-34, Lk 4:38-41)
1) 悪霊の追い出し
イエス様がペトロの家に来られて彼の義理のお母さんを癒したことはあっという間に町内に広まり人々は病気の人、悪霊に取りつかれた人を大勢連れてきました。イエス様はただで直してあげるのですから無理もありません。悪霊の追い出しについて再来週お話しする予定ですので今日は詳しくは触れませんが、聖書は悪霊の存在を一貫して認め、注意しなければならないということを私たちに教えています。現代の人々はそれらを簡単に「精神病」と片付けてしまう傾向がありますが、それは悪霊をコントロールするサタンの思う壺です。時にはイエス様の権威により私たちが力を表しておこなわなければならないことなのです。
2) 癒しは預言の成就
最後の節の括弧の中はイザヤ書53:4の引用です。この箇所は旧約におけるイエス様についての預言として知られている箇所です。1節から5節までを読んでみましょう。この預言によれば、癒すことはイエス様が来られたことの大きな意味の一つなのだということが明らかです。そのような方として地上に登場なさる数百年前に、来られることを期待されていたのです。新約の時代に成就したこの預言は今でも皆さんを通して現される癒しのわざとして、救いの働きと共に、また救いに深く関連する形で表され続けているのです
メッセ−ジのポイント
イエス様は宣伝のためでも金儲けのためでもなく、ただ憐れみによって人々を癒されました。私たち教会の癒しのミニストリーもそうでなければなりません。憐れみ、それは無償の愛のひとつの目に見える形です。癒す権威と力を持ったイエス様は今も生きて働いています。私たちがイエス様を信じて主の愛で隣人を愛そうとする限り、私たちを通して主の癒しはおき続けるのです。それはイエス様が教会に命じられた旧約聖書の預言を成就する愛の働きの一部なのです。
話し合いのヒント
1)聖書の中の癒しで一番印象の深いのはどの話ですか?
2)神様の癒しと現代医療との関係をあなたはどう考えますか?