The cost of following Jesus (Mat. 8:18-27)
イエス様に従う人が払うコスト
(2テモテ4:1-5) 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
この箇所は直接今日のメッセージに関する聖句ではないのですが、私は自分のメッセージがどちらにあたるのかと考えることがあります。皆さんがどう思っているのか興味がありますが、私としてはちょっと優しすぎるのではないかと思っているので、今日は内容に合わせてちょっと辛口で行こうと思います。あなたは今日の最初の登場人物のようにイエス様に従うということを軽く考えていないでしょうか?
(マタイ8:18-22)イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。 (18-19) イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」 。 (20-22)
A 地上では旅人(18-19)
1)旅の不便さ
旅行から帰ったときに、「ああもう帰ってきちゃった、もっと長く行っていたかったなー」と言いますか?それとも 「ああやっぱり家はいいなあ」と言ってしまいますか。「やっぱり家が」と言うのは、歳を取った証拠だそうです。どんなにデラックスな旅行をしてもベッドの硬さや枕の高さが自分のものとは違っていてだんだん家が恋しくなる人も多いと思います。イエス様に従うということは自分をこの世のものではなく神の国の市民と考え、この世では旅人として一生を過ごすということです。それはベッドがあるだけでまし、時には野宿するような不便さもある道のりです。自分に合った枕、ちょうど良い硬さのベッドを確保すると言うのは、自分の願望に従って歩み、得たものは失わないように、得ていないものは何が何でも手に入れようと執着するということです。この律法学者はイエス様に従うと言うことを人気作家の講演会の追っかけでもするかのように考えていたようです。そこでイエス様は、「私に従ってくるということは自分を捨て自分の十字架を負ってくること」だという意味でこうおっしゃったのです。
2)旅の喜び
イエス様に従うことは、従うという決意を持ったものにとっては苦しいものではありません。不便だと感じるのは、この世と神の国どっちつかずの者です。私はクリスチャンになっていなかったら、編集者か記者として自分の興味の赴くままに仕事をし、売り上げを気にしながら定年まで働き、うまくいけば気ままなリタイヤ生活をすることを自分の生き方として選んでいたと思います。でもそれは人生の目標であっても目的ではありません。クリスチャンとしてこの世を生きると言うことは一生を神の国の大使として歩むということです。それがすべての人に与えられた人生の目的なのです。人生の目的を知ると、その目的に沿って歩むときに与えられるあらゆる経験が、良いものとして受け取れるのです。人生の旅をイエス様とともに歩んでいた弟子たちは十字架の出来事によって主と物理的には引き離され、迫害さえも経験しましたが、霊的な意味においては、主に励まされ歩み続けました。そして多くの弟子は殉教の死を遂げましたが。みなその一生に満足し、主に感謝しながら、この世での務めを解かれて故郷=神の国に帰って行ったのです。
B プライオリティー (20-22)
1)あなたは誰の権威の下にいるのか?
この世の旅の困難のひとつは、あなたの上には従うべき権威がいくつかあって、それに従うということと神様に従うということをどう折り合いをつけてゆくかということです。家にいれば親、学校に行けば先生、職場では上司、彼らはあなたにとって地上の権威です。彼らの命令に従うことは当然のことです。彼らに従わずに神様に従いなさいと言うのではありません。
更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(マルコ7:9-13)
◆十戒(出エジプト20:1-15)
神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
私たちは、この世にある限り、大使として誠意を尽くすのです。神様に対する誠実さと人に対する誠実さは矛盾するものではありません。イエス様が父の葬りを優先しようとした弟子を叱ったのは、彼の表面的な行動ではなく、彼の心のうちに「イエスに従う」というプライオリティーが確立されていなかったからです。私たちはこの世の権威に従うという理由を付けて、イエス様に従うことを拒絶してしまう傾向を持っています。例えば忙しいことを理由に礼拝、ミニチャーチ、デヴォーションを軽視してしまうということです。
2)どうしてもあなたがしなければならないことはそれほど多くはない
◆マルタとマリア (ルカ10-38-42)
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
私には先週のうちに片付けてしまいたかったプロジェクトがあったのですが、どうも気が向かず、ほかのことばかりしてしまいました。庭はさっぱりし、車もきれいになり、4冊の本も読めましたが、そのプロジェクトは未完のままで今週を迎えてしまいました。あなたの目の前にはたくさんのするべきことがあると思います。それをあなたが本当にそのときしなければいけないのでしょうか?イエス様はそうすることを望んでおられるでしょうか?このことは牧師が判断してあなたを裁くことではありません。あなたとあなたの主との間でクリアになっていればよいのです。
3)あなたがイエス様と共に働いてよい結果を出すためには?
あなたがイエス様と共に働いてこの世でもよい結果を出すために大切なことはプライオリティーの原則を崩さないということです。みなさんはこの話を知っていますか?その昔、鳥と哺乳類の間に争いが起こったのです。鳥が勝っている時には、こうもりは「自分は羽があって飛べるから取りの仲間だ」といい哺乳類が優勢になると「自分は卵で生まれてくるのではないから哺乳類の仲間だ」といって勝っている方につこうとしたのですがどちらからも信頼されなくなってしまったのです。私たちの国籍は神の国です。そしてやがて神の国の支配が完成することを信じています。私の言葉と行動が時によって都合よく神様の基準と人間の基準という別のスケールを使い分けるなら、こうもりのように神様からも人からも信頼されないものとなってしまいます。
この社会では同時に2カ国のパスポートを持つことを許されている国と、日本のようにそれを認めない国があります。神の国もまた心の二重国籍は認められません。あなたが神の国のよい市民でありたいなら、地上の国籍は認められません、つまりこの世界では旅人であり大使であるというスタンスをしっかり保つことによって。良い働きをすることができます。
しかしこの世界で旅人として生きることには、苦労だけではなくそれをはるかに上回る価値があります。23節以下を読んでみましょう
C 大きなコストをかけても従う価値のある方 (23-27)
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
1)信じていても問題は起こる
イエス様を信じているのに何でこんなことが起こるのですか?という人がいます。この世界に生きている限り、悩みや苦しみ、恐れはやってきます。私がこんなに苦しんでいるのにイエス様はどこかに行ってしまったのか寝ておられるのかと思ってしまうときがあります。初代教会の弟子たちが直面した問題は私たちのものよりはるかに大きく深刻なものでした
2)あなたの主に対する信頼をもっと大きく育てよう
目の前の問題に対する恐れが、イエス様に対する信頼よりも大きくなってしまいがちな私たちですが、主に対する信頼感はインスタントに与えられるものではなく、だんだん深まってゆくものなのです。イエス様と共に歩んでゆく道のりを通して育ててゆくものです。そこにイエス様がいるにもかかわらず嵐でパニックに陥った弟子たちもやがて殉教することさえも恐れず損とも思わない人々に変えられていったのです。
3)すべてを従わせることのできる方があなたと共に歩む
わたしたちは自然も人間もすべてをおさめられている方にしたがっているのです。すべてのものを従わせる権威と力を持った方があなたと共におられるのです。
それは「誰にとっても人生は思い通りにはなりません。でも、あなたにとってはそれよりもっと素晴らしい、あなたに対する神様の計画は完成する」ということを意味しています。
ポイント
私たちのふるさと、国籍が神の国であるということは、決してこの地上での歩み、人々との関係をおろそかにしていいということではありません。私たちはここで神の国の大使としてベストを尽くすのです。しかしクリスチャンが神の国の市民としての行き方をつらぬこうとするとき、この世界ではきゅうくつな思い、居心地の悪さを感じたり、時には攻撃にさらされることもあるのです。それらが私たちがクリスチャンとしてこの世で生きるときに払うコストなのです。イエス様はそれだけのコストをかけてもしたがい価値のある方、いや唯一従うべきお方です。
話し合いのヒント
1)あなたにとってクリスチャンとしてこの世界に生きることの喜びと苦しみの例をあげてください
2)あなたが大きな代価を払ってまで主に従ってゆきたいと思うのはなぜですか?