*2003年7月6日 メッセージノート*

守るべき古さと捨てるべき古さ (マタイ9:14-17)

もう25年前に最初のサーフボードを買ったとき195cmくらいの長さが最新流行でそれ以前の3mくらいの板は時代遅れのものだと考えられていました、その5年後の板は180cmでFinが2つ付いていました。そのときには195は長すぎでフィンが1本しかないのは古臭く見えました。5年前に買ったのはさらに短くフィンは三つになりました。去年手に入れた中古の板は250cmでサーフィンが日本に入ってきたころに板を少し短くしたようなシェープで古い形で動かしにくいし重いのですがテークオフするときは小さな力でもスピードが出て歳のハンディを感じません。時代によって長さやシェープが変わるボードは波に乗る道具ですが波は何十年どころか、神様が世界を創造されたとき以来変わってはいません。

教会はイエス様と親しくなるための道具といえます。いつもお話しているように建物ではなく、そこに集う者の集合です。ユアチャーチは、今私たちの身近にいる人々がイエス様に親しくなるための道具として、オーダーメードのサーフボードのように私たちの愛する人たちにぴったりのイエス様を紹介する教会になりたいと思いるのです。

 私たちがイエス様の地上での歩みについて考える時、それは2000年前の過去の出来事について考えているわけです。イエス様の教えは2000年もの長い期間広がり続けてきた歴史のある確かな教えとしてクリスチャンではない人々からも認められている確かな教えと認められています。でもこの時代の人々にとっては、聞きなれない新しい教えだったわけです。


A イエス様が来られたことは新しい時の始まり(14-15)

1) 変化に気づかない人々

9:14 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。

バプテスマ(洗礼者)のヨハネは救い主であるイエス様がこられることを預言し、その預言が完成したことをその目で見ることのできたイエス様と同時代のたった一人の預言者です。でもその弟子たちヨハネほどには時の変化についてゆけなかったようです。イエス様の教えが、彼らの考えによれば神様に従う信仰からずれてしまっているように思えたのです。

2) 変化を拒む人々

ファリサイ派と呼ばれる人々は福音書にたびたび出てきますが、彼らは当時のユダヤ教の一派で、旧約聖書の一字一句を忠実に守ることを主張していた人々です。彼らもまたイエス様と弟子たちが、断食というユダヤ人にとっては大切な宗教行事をしないことに怒り、イエス様をユダヤ教にとって危険な異端者としか見ることができなかったのです。

3) 新しい時代は来ている

イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。(15)

断食にはいろいろな意味がありますが、罪を犯してしまったことに対する深い反省と赦しを祈願する態度の表れとしてなされたり、心の願いを表現することとして、また悲しみを表すこととしてはじまりました。それがやがて神様に対する敬虔を表す宗教行事として定着していったのです。イエス様はすべての断食を否定されていたわけではありません。しかし犯した罪を嘆き、やがて来られる救い主を待ち望むという意味での断食はイエス様が救い主として来られたことにより意味を失ったのです。イエス様を主と認め受け入れるものにとって、もう待ち望む時代は終わったのです。イエス様が共におられるのですから。ただその3年後彼らは悲しみの断食をすることになるだろうとイエス様はおっしゃいました。それはやがて起こる十字架の出来事を預言したものでした。私たちにとってイエス様が肉の目には見えない方であるということは当たり前で、それでもイエス様が共にいてくださることは実感していますが、最初の弟子たちにとって十字架の出来事は何日も食事がのどを通らない大変ショックで悲しい出来事だったのです。

新しい救いの時はイエス様と共に始まりました。そして実は今でも続いています。2000年前から始まって今でもその時が続いているというのは人間の時間の感覚からすると変かもしれませんが永遠を支配する神様の目から見た歴史のスパンから見ればほんの一部分に過ぎないのです。(2ペトロ3:8参照)

そこで私たちの感覚からすると、宗教としてのキリスト教はとても古いものとして感じられ、その制度や組織も時代遅れのように感じられることもあるのです。でもイエス様の出会いはどの時代の人にとっても新しい新鮮なものです。そこで古い自分が葬られ希望に満ちた新しい命が始まるのです。

B なぜ私たちは新しい皮袋であるべきなのか?(16-17)

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」16-17

1) 新しい皮袋として誕生したキリスト教

当時ワインは動物の皮で作られた袋に入れられました。特にこれから発酵してする新しいワインは必ず新しい皮袋に入れました。古い皮袋だと硬くなっていて、発酵が進んだときに張り裂けてしまうからです。イエス様は新しい宗教を作るために来たわけではありませんが、イエス様の新しい命に満ちた教えは、ユダヤ教という古い皮袋に収まりきるものではありませんでした。こうしてキリスト教会はイエス様の教えを運ぶ新しい皮袋として誕生したのです

2) 新しい皮袋もやがて弾力を失う

2000年前に誕生した新しい皮袋は今も新しさを保っているでしょうか?新しい皮袋はどうして古くなってしまうのでしょうか?それは誰もが教会を自分にとって心地のよい場所にしたいという想いがあるからです。

ある海岸にライフセーバーのクラブができました。交代で見張りに立ち何かが起こればすぐに救助に向かい、それ以外の時にはおしゃべりをしたり、休憩をとることのできる質素な建物でしたが、ひと夏に何人もの命を救いました。メンバーの条件は結束を大切にしたので厳しく新しく加わるものはあまりなく高齢化して、少しずつ救助より親睦が中心になってゆきました。やがてクラブの建物は親睦により適した岸からずっと離れたところに新しく作られ、海岸の建物は朽ち果てついに最初の役割は果たせなくなってしまったのです。このことに心を痛めた若いライフセーバーが海岸に新しいクラブを作り救助が再び始まりました。これは教会の歴史の譬えです

2000年の教会の歴史は改革の歴史ともいえます。新しい教会もやがて形式的になったり、人間的な伝統が重要な教えのように語られるようになったりして輝きを失いそうになるたびにもう一度イエス様の原点に戻ろうというムーブメントが起こり教会は新しくされてきたのです。それは何か別のものを作ろうということではなく、反対に原点に戻ろう、一番古いところに戻ろうというという動機で新しい教会が起こったわけです。

古い皮袋のような教会はたくさんあります。私はそれをひとつ増やすよりまだ少ない新しい皮袋を作りたくてユアチャーチを始めたのです。それは古い皮袋がだめだといっているわけではありません。古い皮袋はビンテージ物のよいワインを入れるために必要なのです。ユアチャーチが新しい皮袋であるということは、古い形式や習慣を保存することより、古い皮袋(教会のあり方)に収まりそうもない新しい世代がイエス様と出会うことを優先したいということです。そのために、私たちは常に次の世代のまだクリスチャンではない人たちのライフスタイルにオープンであることが大切です。それは私たちが普通の言葉を使い、新しい音楽のスタイルを受け入れ、新しく着てくれた人々にオープンであろうとすることで実現します。

みなさんはこの教会の名の由来を知っていますか?それはこの教会は自分の者ではなく「あなた」のものですという表明です。「あなた」とは第一に神様のことであり第二に皆さんが出会い「あなた」と呼びかけるすべての人のために開かれている教会ということです

メッセージのポイント

世界史がイエス様前(BC)とイエス様後(AD)に別れていることでわかるとおりにイエス様が来られたことは歴史を二分する偉大な出来事です。しかし、もっと偉大なことはそれがあなたの心にも及んでいるということです。あなたのBCは過ぎ去り、ADが始まるのです。ユアチャーチ(あなた)は周りの人にこの新しい主の年が来ていることと知らせるという役割を担っています。教会はほっておけばいつの間にか保守的で柔軟性のないものになってゆく性質を持っています。多くの教会がその古さのゆえに新しい人々を迎え入れることができずにいます。古いワインを入れる古い皮袋はたくさんありますが新しいワイン(新しい世代)を入れられるのは少ないのです。それでわたしたちは新しい皮袋としての教会であり続けたいのです。

話し合いのヒント

1)なぜファリサイ派やヨハネの弟子たちと違い、イエス様は断食を勧めなかったのでしょう?

2)教会が柔軟性を持ち続けるために必要なことを話し合ってみましょう