*2003年7月27日 メッセージノート*

求む!神の働き人 マタイ9:35-10:15

 私の家は集合住宅の4階にあります。小さなベランダにはいろいろな植物を植えていますが、今ブラックベリーの収穫を迎えています。去年よりずっとたくさんの実をつけたので、熟すのを楽しみにしていました。一度に収穫しようと全部が熟れるのを待っているうちに、よく熟れて大きくておいしそうなのを鳥に食べられたり、雨が多い影響で腐り始めてしまったものが出始めたので、今熟れているものだけあわてて収穫しました。収穫といってもジャムにしたらビンに半分ほどでしたが。カリフォルニアは果物の生産が盛んです。特にストロベリー畑の収穫は時間との勝負だそうです。広大な農地の中で普段は家族だけで働いているのですが、熟れてから傷んでしまうまでの時間が短いので多くの労働者を雇う必要があるのです。まじめな働き手を十分確保できなければ、せっかく育てたストロベリーを腐らせてしまうことになってしまうのです。
 イエス様は人間の社会の状態も同じように収穫の時が来ていることを教えられました。人間社会での収穫って何でしょうか?果物や野菜はせっかく育っても収穫されて人が食べて栄養にならなければ意味がありません。あまりの豊作で値が下がり収穫しても儲けにはならないキャベツが畑に放置されたままになっているといったニューズを聞いたことはありませんか?もし人が自分の生きている意味や目的を知らなかったり、知っていたとしてもその意味や目的にかなった歩みをしていないなら畑で腐るのを待っているキャベツと同じなのです。始めに9:35−38を読みましょう

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

このときは今も続いています。2000年も続いているから慌てる必要はないと思うかもしれませんが、いつ収穫できなくなるかは誰にも判らないのです。

収穫は多いが働き人は少ない

1)あなたの周りにも迷える羊がいる(9:35-36)

私たちの周りにも人生の道に迷ったり、危機に陥ったり、怪我や病気で心も体も弱ったりして希望を失っている人がいます。もしかしたらあなた自身が迷っているかもしれませんね。けれどもあなたは神様の働き人に出会い、今あなたはここにいるのです。そんな人にはもう少し休息や静養、治療が必要かもしれません。慌てる必要はありませんが、イエス様はあなたが癒されるだけではなく与えられた役割を果たすことができるように成長させてくださる方です。

2)あなたも働き人(9:37)

イエス様は彼と共に働いている弟子たちに向かって、もっと働き人が与えられるように祈りなさいと勧めておられます。誰かが私の代わりに働いてくれるように祈るのではなく、誰かが私と一緒に働いてくれるように祈るのです。今の状態がどうであれ、あなたはすでに主の働き人です。神様はあなたを助けたいと思うだけでなくできれば一緒に働いてもらいたいと願っておられるのです。

3)まず祈り求めよう(9:38)

イエス様と共に働くといったっていったい私は何をしたらいいんだろう?私の立場で何ができるんだろうと思ってしまう人も多いと思います。神様から恵みや慰めをいただくためにここに来たのに、働けといわれるのは心外だなーと思う人もいるかもしれませんね。こんな小さな教会にイエス様は何を期待しておられるのだろうと思われるかも知れません。でもこの教会を始めたときは、私たち夫婦と村田さん夫婦、タイにいる朋子ちゃんと今は違う教会にいる二人の人しかいませんでした。礼拝はうちのリビングで行っていたのです。今、目に見える教会はみんなの祈りと働きの結果です。私たちはもっとたくさんのことをさせていただけるように働き人が与えられること、自分が働き人として、今までよりもう一歩踏み出した働きができるように祈ることから始めましょう。

神の国の働き人の仕事

神の国とは死後クリスチャンが行くところではありません。それは神様の支配の及ぶ領域ということです。日本とか韓国とかの目に見える領土とは関係なしに、人々を通して神様の意志が行なわれる所が神の国です。そして行なう人々が「神様の働き人」です

1) 福音を宣べ伝える(10:5-7)

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

一言で神の国の働きと言っても様々な働きがあります。まずは神の国に属していない人々を招く働きです。町田市比較的は福祉政策が行き届いた町ですが、相模原市に住んでいるわたしは、その恩恵に十分には与ることはできません。人々が神様の恵みに充分に与るために神の国の市民になることを勧めるのです。神の国が今ここにあって、それに気付かず悩んだり苦しんだりしている人がたくさんいるのです。神の国の市民になる、つまりイエス様を主と信じてクリスチャンとなることなしに、本当の問題解決はありません。

2) 癒し (10:8)

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

イエス様はたくさんの人々の病を癒しましたが、それは決して信じることへの引き換えにしてあげたことではありません。世界中に教会の経営する病院がたくさんあります。中には貧しい国でほとんどの人が治療費を払うことができない状態で、世界中の人々の援助によって運営されているところもたくさんあります。そこでももちろん信仰を持つことを条件に治療するのではありません。私たちもまた見返りを求めずに相手がクリスチャンでなくても、違う宗教を信じる人であっても、病気や様々な問題について祈ることや何か手助けをします。

3) 羊飼い(9:36)

Pastor はギリシャ語 ポイメーン(羊飼い ヒブル語ローエ) 実は牧師(新共同訳は「牧者」)という言葉は聖書に一回しか出てきません(エペソ4:11)大牧者(イエス様)に従って羊(人々の群れ)の世話をする役割です。本当の羊なら何100頭でも一人の羊飼いが導けますが、人間はそういうわけにはいきません。クリスチャンの方はイエス様に出会う前の、あるいは出会ったばかりの時の私たちが、今まで群れからはぐれて、怪我や病気をしていたり、栄養が十分ではない羊のように、十分な世話をしてもらう必要があったということを思い出してください。教会はそのような必要に応える所です。クリスチャンになるということは、1)キリストに出会い。2)教会で十分な世話を受け、心の健康を取り戻し、3)今度は自分が羊飼いのように後からやってくる誰かの世話をして、その人の回復や成長を助ける人になるということなのです。

 人の助けがいらない人は一人もいません。すべての人に助け手が必要です。それも自分の満足のためではなく心からその人のことを思っての助け手が必要なのです。人が神様に収穫されなければならない理由はここにあります。神様はあなたを必要としているのです。神様はあなたを用いて誰かを助け起こそうと、誰かを慰めようと、誰かを喜ばせようとしておられます。あなたがこの世界に存在する理由は、あなたを必要としている人のニーズを満たすことです。多くの人はこのことに気づかず自分の欲望を満たすことで頭がいっぱいです。世話をしてもらいたいけれど、人の世話なんかしたくない人で世界はあふれています。もう一度9:35−38を読みましょう

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

神の国の働き人の心構え

帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

1)自分の役割と責任の範囲を自覚する(10:5-6,11-15)

イエス様は最初の12人の弟子たちには外国にまで行くことを考えてはいけない。まず自分の地域の中で活動しなさいと命じられました。福音がヨーロッパに伝わるのは次の時代のことです。それが日本に伝わるまでにはさらに1500年以上が必要でした。私たち一人一人には、時間も能力も限界があります。自分が神様のためにできることなんてないと思っている人もいるかもしれませんが、神の国の働きの種類は働き人の数だけあるといってもいいと思います。そのために神様は私たちにそれぞれ違った、能力や感性を与えて下さっています。ともすると私たちは自分がしなくても良いことができないといってくよくよする割りに、自分のなすべきことをしないですごしてしまいがちですが、本当は自分に与えられた小さなことに忠実であることが大切なのです。

2)ただで受けたものをただで与える(10:8)

 私たちは自分の能力や努力ではなくただ神様の憐れみと恵みにより、多くの良いものを与えられて生かされています。それは神様からただで与えられたプレゼントです。これを教会では「恵み」という言い方をします。恵みをきれいな流れの水と考えてみてください。人間は器です。大きさも形も材質も違いますが、みな神様の恵みの水を受け取ることができます。しかしどんなに大きな器でも水は流れなければ腐ってしまいます。そこで私たちはその水を料理に洗濯に植物の水遣りに使い、また新しい水を器に満たします。恵みも同じです誰かのために使わなければ意味がありません。使うことによって自分が空になることを恐れてはいけません。神様は新しい恵みでまたあなたを満たしてくださいます。

3)神様を信頼し生活の心配をしない(10:9-10、6:31-34)

 生きていれば心配事は次から次にやってきます。衣食住のレベルをちょっとでも下げなければならなかったりするととても心配になり神様に文句を言いたくなりますが、神様はそんな私たちにもっと私を信頼しなさいと呼びかけられます。裕福でなくても愛情を持って育てられているなら、その子供は家計の心配をしたりはしません。いつも思い煩いに支配されているならとてもほかの人のことまで思いやってあげることはできません。


メッセージのポイント

私たちはイエス様に出会い、神の子とされて幸いな人生を歩むことができるようになりました。しかし私たちの周りにはイエス様を知らずに悩んだり、苦しんだりしている人がたくさんいます。イエス様の恵みは、それをあなたに伝えてくれた人がいたように、その人にも伝える人がいなければ伝わりません。今もこの働きをする人が少ないことはイエス様の時代と変わりません。イエス様の呼びかけに応えて、私たちもただで与えられた大きな恵みを、惜しみなくただで与えましょう。

話し合いのヒント

1)イエス様は何を「収穫」とたとえられたのでしょうか?

2)神の国の働き人はどんな仕事をするのでしょうか?