*2003年8月3日 メッセージノート*

「恐れ知らず」と「恐れを知る人」 マタイ10:16-39

 御殿場に今年、ギネスブックを狙い、世界で一番時間のかかる「お化け屋敷」がオープンしたそうです。自分の足で歩くタイプで入ってから出るまで40分もかかるそうです。あなたは行ってみたいです行ってみたいですか?生まれ育った文化によって何が怖いかはまちまちで、私にとってはディズニーランドのホーンテッドマンションより豊島園のチープなお化け屋敷のほうがぞっとすると思いますが、あなたはどのようなことに恐怖を覚えますか?

お化け屋敷なんてぜんぜん怖くないけれど、ローラーコースターだけはどんなにかわいいのでも乗りたくないという人もいます。精神医学の分類として様々な恐怖症といわれるものがあります。高いところ、暗いところ、狭い空間、先端のとがったもの、、、私の知り合いで小さなときに犬におしりを噛み付かれて以来、どんなに小さな犬でも怖くて近づけない人がいます。人それぞれに違っていても「恐れ」という感情は誰にでもあります。

何年か前にスノーボーダーの間で「NO FEAR」というロゴの入ったTシャツがはやったことがあります。「オレは恐れないで危険な技をかける、がけを飛ぶ恐れ知らずだぜ」というアピールです。

あれを着た何人かはスローガンどおりに跳んで足を折ったと思います。(実は私もそのうちの一人です。)

「恐れ」は前進するために克服しなければならないこともありますが、安全のためには絶対必要な感覚でもあるのです。恐怖感があるからこそたいていのトラブルは避けられるのです。

NO FEAR が流行るとクリスチャンのTシャツメーカーがそれをもじって「Know Fear」というロゴのTシャツを販売しました。パクリではありますが、こっちのほうが真実を語っています。

今日の聖書はあなたが大切な人生を豊かに過ごすために、本当に恐れるべきことと、恐れる必要のないことをはっきりと教えてくれています。


迫害について (16-25) 

1) 迫害とは何か?

それではまず16節から25節までを読んでみましょう

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

イエス様を信じているということを理由に逮捕され、信じることをやめるよう強要され、精神的、肉体的な苦痛を与えられることなどを迫害といいます。イエス様を主と信じる人々はこの時代から迫害を受けていたのです。ユダヤ教の社会の中では、イエス様とその弟子達は異端的な教えを説く危険集団とみなされていたわけです。たとえ良いものであっても、古い価値観や秩序や習慣を改めようとする試みは大きな抵抗を受けます。そしてそれが迫害という形で現れるのです。

イエス様の命令は「全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい」です。この命令に従う限りいつでもどこでも迫害が起こっても不思議ではありません。

2)2000年の教会の歴史は迫害の歴史でもあった

 事実2000年の教会の歴史は迫害の歴史でもあったといってもいいほどです。ローマ帝国でも、皇帝自身が信仰を受け入れ国教となるまでは激しい迫害が続きました。

 日本も例外ではありません。キリスト教が日本に伝えられたのはカトリックがおよそ500年前、プロテスタントは120年前ですが第二次世界大戦が終わるまで短い例外的な期間を除いてはキリスト教を信じることは国民としてふさわしくないこととされていました。実際に法律として禁じられていた時期も長く、第二次世界大戦下では天皇制が単なる君主制ではなく宗教的要素を持って天皇を崇拝することを要求したからです。法で禁じられていたころは、クリスチャンと知られれば信仰を捨てるか処刑されるかの二者択一しか道はありませんでした。また第二次大戦下ではキリストを信じるのか天皇を信じるのかと責められ多くの牧師たちが投獄され、ひどい環境の中で獄死したものも多かったのです。若い人たちには信じられないかもしれませんが、天皇は元首であると同時に国民が拝まなければいけない神とされていたのです。

 迫害は今でも存在しています。「地下教会」という言葉を聞いたことがありますか?何だ、ユアチャーチのこと?いいえユアチャーチは半地下にある教会です。地下教会とは地下にある教会ではなく公に礼拝をすることが許されず。誰かの家などで目立たないようにしか集まれない教会のことです。今でもキリスト教を禁じる国では、人々はそのようにして集まっています。

 一方でキリスト教の名のもとで行われた異教徒に対する迫害もあったことを忘れてはなりません。たとえば南北アメリカの原住民は、征服者の宗教としてキリスト教徒になることを強要されたのです。たとえ真理を伝えるにしても力を背景に強要するのは、決して神様の意思ではありません。

 クリスチャンホームの子育てでこの間違いをしてこどもをイエス様から遠ざけてしまった人がいます。親は子供に対して大きな力を持っています。教会に行くことやクリスチャンらしい態度をとることを強制することはできても、子供をクリスチャンにすることはできません。それはその子と神様の間の問題だからです。もちろんそれでは放任しておけばよいということではありません。子供は親が言う事を聞いて育つのではなく、親の背中を見て育ちます。親の神様に対する態度、人々に対する態度、子供に対する態度を見て育ちます。あなたがイエス様とどれだけ真剣に、そして心から喜んでイエス様に従っているか、を子供たちは見ているのです。

3) 語るべき言葉なすべきことは用意されている

イエス様の最初の弟子たちにとっても迫害を受けることなど考えたこともありませんでした。だからイエス様が捉えられた時、問い詰められるとイエス様なんて知らないと言って逃れようとしたのです。ところが使徒言行録での弟子たちの様子は、全く違っていて堂々としています。何が彼らをこんなに変えてしまったのでしょうか?それは聖霊の働きです。捉えられ大きな法廷に引き出されても、雄弁に主張したペテロは、それまで人前で語る機会などない漁師だったのです。

この先、私たちが、迫害に遭わないという保証はありません、しかしたとえそんな時を迎えたとしても、そこでするべきことや、いうべきことは聖霊が教えてくれます。

本当の恐れを知る (26-31)

1) あなたの魂に触れることのできない者を恐れる必要はない

次に26節から28節を読んでみましょう。

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい

昔ニューヨークシティーは治安の悪いところで普通の家に防犯システムが備えられていたり、ドアの鍵を二つも三つも付けなければ安心できないと聞いて怖いなあと思いましたが、今では日本も同じです。凶悪な犯罪が頻繁に起こって、体に危害を加えられたり、命を奪われたりすることさえあります。大変恐ろしいことですが、聖書は大胆にも「体を殺すもの」を恐れるなというのです。それはあなたの体を殺すことはできてもあなたの魂は誰にも殺すことができないからです。

理不尽に命を奪われる人が後を立ちませんが、人は体を奪われてもそれで終わりではないというのが聖書の約束です。

人は誰であり一度死ぬことが決まっています。「健康のことで周りの人を煩わせないうちに、この世での充実した人生を終え、いつもと変わらず眠りにつき朝起きたら天国だった」というのが理想かもしれませんが、自分では決められません。交通事故とか、誰かの手にかかってという死もあるのです。しかし殉教して天国に帰った者も、ベッドで静かに息を引き取った者も、犯罪者に命を奪われた者も神様と和解して永遠の命に生きているなら何の違いもありません。

使徒言行録の7章54節から8章8節を開いてみましょう。

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。

さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。

ステファノは教会の歴史の中の最初の殉教者です。彼は文字通り体の命をかけてそれより大切な永遠の命を証ししました。

2) 本当に恐るべきことを知り、伝えよう

でも信じる人みなに殉教の死を求められているのではありません。数から言えばむしろそれは少数です。ここに書かれているように多くの人はエルサレムを逃げ出しました。そしてこのような人たちの手によって信仰は伝えられて行きました。ステファノは死んで永遠の命を教え、その他大勢は逃げて永遠の命を伝えたのです。

もう一度マタイ28節に戻りましょう、「あなたを殺す人も恐れる必要がない」の続きは「だから恐れはない」ではなく「本当に恐ろしい者」を恐れなさいとなっています。「神様を恐れなさい!」とても誤解されやすい言葉ですから注意深く聞いてください。

神様を恐れるのは自分が気に入らない人を容赦なく殺してしまうような独裁者を恐れることとは違います。神様は正しい裁きをする方です。そして神様の正しさの基準からすれば「正しい人」は一人もいません。

キリストの十字架を通して救われる以外には、人の魂は永遠の暗闇にとどまるしかないということです。本当に恐ろしいことはこのことです。安楽な死を迎える悪人も理不尽に殺されてしまう善人もいますが、肉体の滅びは同じです。しかしその先が違ってくるのです。

地上での人生は永遠の中の限られた数十年です。神様を恐れるとは神様を怖がり続けることではありません。神様が恐ろしいほどの正しさと権威を持っていることに気づいて、イエス様を主と信じることによって神様と和解し、神様に従ってゆくということです。

3) あなたのすべてを知っておられる方

29節から31節を読みましょう。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

正しさについて厳しく裁かれる神様は同時に店で2羽ひとまとめで安く売られている雀の事さえ配慮していてくださる方です。その神様はあなたのことを誰よりも良く知っていて、細やかに顧みて下さっているのだから私たちは安心なのです。

この時代にイエスの弟子であるということの意味

1) 自分がイエス様の仲間であることを言い表す (32-33)

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

今月は洗礼式を予定しています。洗礼は自分が心に信じている信仰を公に明らかにすることの目に見える表現です。ローマの10章には「人は心で信じて正しいものとされ口で公に言い表して救われる」とあります。洗礼はそのことを象徴する儀式です。

2) イエス様に従うこととこの世の人間関係 (34-37)

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

私はクリスチャンになる前にこの箇所を読んで、キリスト教とはなんてひどい宗教なんだろうと誤解したことがあります。ここで言っている、愛するとは「執着する」ということです。いつまでたっても子離れできない親、反対にいくつになっても親離れできない子供、子供の言いなりになったり、大切に思うあまりに相手を客観的に見られない人間関係は「愛」ではありません。

愛するとは一番簡単に言えば「自分を与えることです」人はそのままではそれができません。それができるのはただイエス様にしっかりつながっていることだけです。イエス様を第一にするというと肉親を大事にするなといっているようにも見えますが、実はイエス様を第一にすることが、親を子供を本当に愛することにつながるのです

3) 命についての究極の逆説 (38-39)

また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

クリスチャンは、神様に与えられた自分の役割を果たしてゆくことによってイエス様に従ってゆく者です。先ほど洗礼のことに触れましたが、英語のバプテスマの元になったギリシャ語のバプティゾーは水に沈めることを意味する言葉で、古い生き方に死に、新しい命が始まることをあらわしています。

この節の意味するところは「あなたが本当に生き生きと充実した人生を歩みたいと思うなら、自分の心に従って、自分勝手に生きるのではなく、イエス様を信じ新しい命を与えられて、神様が用意してくださった最高の計画に従って、与えられた役割を果たしなさい。古い生き方を捨てることなしに新しい生き方をはじめることはできません。」ということです

メッセージのポイント

 2000年の教会の歴史は迫害の歴史であったことを無視することはできません。「真理」が明らかにされれば「偽り」は退かなくてはなりません。偽りの状態に安住していた人々が真理を潰してしまいたいと考えるのも当然です。クリスチャンになるということの核心は、教会のメンバーになるということではなく、生き方としてイエス様に従うことを選択することです。ここにも大きな抵抗が表れます。すでに手の内にあるものを手放して新しいものを受け取ることは勇気がいることです。人生観や世界観といったその人の行き方の中心となることについては特にそうなのです。イエス様があなたの人生に登場したということは、あなたが生き方の二者択一をしなければならないということです。

話し合いのヒント

1)神様を恐れるとはどういうことなのでしょうか?

2)37節と第5戒(出エジプト20:12)はどう整合するのでしょうか?