2003/9/7 メッセージノート 

W. W. J. D. (イエス様ならどうする?)(マタイ12:15-21、イザヤ42:1-4)

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。(15-17)  「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。(18) 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。(19) 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。(20) 異邦人は彼の名に望みをかける。」(21)

イエス様の律法に対する自由な態度と力あるわざに多くの人々が心を惹かれました。このことに危機感を覚えた当時のユダヤの宗教的・政治的指導者たちはイエス様を殺す計画を立て始めました(前回のメッセージ)。イエス様はつかまって殺されることを恐れていたわけではありませんが、その時(十字架の時)はまだ来ていないこと、まだ地上でするべきことが多く残されていることを知っておられたので、彼らをそれ以上挑発することは避けられ移動されました。(15)けれども人々を癒すことを控えるようなことはなく癒し続けられたので多くの人々がイエス様についてきました。イエス様の癒しは自己宣伝のためでも、信者を獲得するためでもなかったので、人々に言いふらしてはならないと戒められたのです。(16)今日の聖書の箇所の後半は旧約聖書・イザヤ書42:1-4からの引用です。

今日の聖書から私たちの主イエス様がどのようなお方であるか、特に一人の人として歩まれた側面、私たちが見習って歩めることを学んでゆきたいと思います。W. W. J. D. いろいろなものにこのロゴがついていますが、最初はブレスレットだったのです。今では日本の普通の店でも時々目にします。意味を知らないで付けている人もいますが、実は深い意味があるのです。

あなたもキリストを見習って歩める(18、ヨハネ13:13-17、フィリピ2:6-9、ヨハネ5:19-20)

イエス様を見習ってといわれても「とても私なんかには無理です」そんな風に感じられる人がほとんどだと思います。しかしイエス様は私たちの弱さ、不完全さを全部承知の上で、ご自身に習って歩むことを命じられています。

あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。(ヨハネ13:13-17)

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:1-10)

1) 神様の選びと意志によってこの世界におかれた人のモデル

18節の最初に私の選んだ僕とあります。イエス様ご自身が神様に選ばれ派遣された人として、来てくださったのです。私たちも自分の意志ではなく神様の恵みによって選ばれ神の子とされました。自己推薦ではなく神様が推薦してくださり今ここにあなたはいるのです。イエス様と同様に。それでもイエス様のようになんてと絶望的になっている人にちょっぴり勇気の出る聖書の言葉を紹介したいと思います。ヨハネによる福音書5:19-20です。

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。(ヨハネ5:19-20)

イエス様だって神様の意志を注意深く聞きながら行動されたのです。私たちは聖書にしるされているイエス様の言葉と行いから、神様の意志を知り行動できるのです。

2) 神様の心にかなって歩みたい人のモデル

イエス様は神様の心にかなったものとして愛されました。しかしそれ以上に私たちを愛していてくださるといえるかもしれません。なぜなら私たちを愛するために、愛するひとり子としてのイエス様を十字架に送られたからです。それほどまでに愛していてくださる神様の心にかなって歩みたいと、神様の愛を知った者なら誰でも思わずにいられないのではないでしょうか?イエス様がそのような人として歩まれたのですから私たちも、イエス様に従うことによって神様の心にかなって歩むことができるのです。

3) 聖霊に満たされて歩みたい人のモデル

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を授けられた直後に、聖霊が鳩のように降ったことが3章に記されています。神様はまたイエス様に従って歩む者に聖霊を満たしてくださる約束をしてくださいました。神の霊に満たされることこそが、力のない、不完全な者である私たちがイエス様のように愛と知恵と力を発揮することのできる根拠です。誰もが聖霊に満たされることを願いますが、神様はイエス様に習って歩む者にこそ聖霊を満たされるのです。

4) 隔ての壁を破り、平和と正義を実現する人のモデル

イエス様はどのような人とでも臆することなく、しかし謙遜に付き合うことのできた方でした。階層も、貧富の差も軽々と乗り越えました。弟子たちもそれに習って異邦人とユダヤ人との壁を乗り越え世界中にイエス様の福音が広がりました。 ユアチャーチがこの(違いを受け入れ、何人であってもどんな世代であっても共に喜び楽しむことができるという)イエス様の心を受け継いでいられることはとても素晴らしいことです。

イエス様の教える歩み方(19-21)

1) 人々の魂に仕える(ペルシャ王キュロスと比較して)

それでは19節以下から、私たちが具体的に見習うべきことを学んでゆきましょう。実はここで引用されたイザヤの預言は、ペルシャ王キュロスがバビロニアを滅ぼすことにより、バビロニヤに捉えられていた指導者たちを含む多くのユダヤ人を解放したことをさすと考えられていました。しかしこの箇所はキュロスのように社会的な平和の回復だけを実現する政治的なメシア(救い主)ではなく神と人との関係を回復する魂のメシア(救い主)を預言していることが分かります。私たちも市民として政治的な行動や判断をすることを求められていますが、私たちにはもっと大切な勤めがゆだねられているのです。それは人々の魂に仕えるということです。もちろんその人の健康の回復のために、経済力の回復のために、人間関係の回復のためにも私たちは喜んで仕えます。しかし私たちは「魂の問題を置き去りにしたままでは真の回復は得られない」ことを知っています。魂に仕えるとは第一に、その人と神様との関係回復に仕えるということです。それをどのように具体的に進めてゆくか、ここで3つのことを学ぶことができます。

2) 「わたしとあなた」の関係を大切にして人々に仕える(19)

「わたしとあなた」の関係とは、自分の満足のための対象として見るのではなく、見下すのでも、見上げるのでもなく、同じところに立って互いに心を開き、喜びも悲しみも共感しあえる関係です。互いに自分のことを犠牲にしてでも「あなた」の必要を満たしてあげたいと思えるような関係のことです。19節に 「彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。」 とあります。日本ではこの秋、国政選挙があるかも知れませんが、選挙となると候補者が大きな駅の前で車の屋根に乗って、大声で叫び、対立候補と争い人の心をつかもうとします。 イエス様はそんなやり方をなさらなかったということです。 一方的に大声で話をされても、その人が信頼できる人かどうかは判りません。イエス様は、その人のところに行ってまず自分が心を開き、お互いに私とあなたといえるような親密な関係を築くことから始められました。私たちも、ビラを沢山配ったり、コンサートなどの大きな集まりに、クリスチャンではない人々に来てもらって、多くの人にイエス様を伝えたいと思うものですが、それは関係作りの前の段階にしか過ぎないのです。あなたが人々の魂に仕えたいと思うならまずあなたは、イエス様がなさったように、その人と「わたしとあなた」と言い合えるような関係を築くことからはじめましょう。


「わたしとあなた」の関係とは、自分の満足のための対象として見るのではなく、見下すのでも、見上げるのでもなく、同じところに立って互いに心を開き、喜びも悲しみも共感しあえる関係です。互いに自分のことを犠牲にしてでも「あなた」の必要を満たしてあげたいと思えるような関係のことです。19節に 「彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。」 とあります。あなたは見たことがありませんか?クリスマスが近づきみんなが心をなんとなく弾ませているとき、にぎやかな街角で(町田にも出現しますが)背中が凍りつくような暗い声でスピーカーから「あなたはこのままではその罪のために地獄に落ちます。それは明日かもしれない。イエス・キリストは裁きのためにふたたびこられる。悔い改めて神を信じなさい。さもなければ」 スピーカーの下に眼をやると、中高生くらいの若い人たちが無表情でスピーカーをくくりつけた棒を持って立っています。町田だけで4-5人いたと思いますが、どれも声の主とは思えないのでどこかで無線で飛ばしてるんだ、と思って探すと、同じくとっても無表情なおじさんが、かなり遠くのナンバーを付けたジープでテープをかけているのが分かりました。この人たちは伝道しているつもりかもしれませんが、とてもいただいた愛と喜びを、喜んで伝えているようには思えません。 イエス様のやり方は正反対です。スピーカーで不特定多数の人に呼びかけたりはなさらず、その人のところに行ってまず自分が心を開き、お互いに私とあなたといえるような親密な関係を築くことから始められるのです。私たちも、トラクトを沢山配ったり、大きな集会に人を動員することが「人に仕える」ことだと勘違いしやすいものですが、それは関係作りの前の段階にしか過ぎないのです。あなたが人々の魂に仕えたいと思うならまずあなたはその人と「わたしとあなた」と言い合えるような関係を築くことからはじめましょう。

3) 弱い者たちに対する特別な配慮を持って正義を実現する(20)

「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。」 イエス様は正義を実現するために来られたといっても間違いではありません。正義は一人一人の魂から実現するものだからです。イエス様はその正義を実現するために性急な方法はとられませんでした。イエス様の「正義」は現在の世界の指導者たちの叫ぶ「正義」とは全然違います。悪を倒すためには罪のない市民、特に子供や貧しい者が犠牲になっても仕方ないと、イエス様はおっしゃいません。無理にでも理由を付けて説得を早々に切り上げて攻撃を開始するのでは、自分の国の利権のために、石油のために、軍需産業のためにやっていると思われても仕方ありません。残念なことにそのようなおろかなことが「キリスト教」の名の元で、十字軍の遠征から始まって今に至るまで何度も行われてきました。そのことをイエス様はとても残念に思っていらっしゃるとわたしは思います。イエス様の正義は、いわゆる「キリスト教国」のリーダーによってではなく、名もないクリスチャンが世界中のさまざまな困難に苦しむ地域に出てゆき、思想や宗教によって差別することなく人々に仕える中に実現されつつあるのです。それは大変時間がかかる、根気の要る仕事なのですが、正義が勝利するためにはそれしか道はありません。どんなに強力な爆弾でも正義は実現しないのです。

4) 国や地域、文化を超えて共有することのできる希望の担い手となる(21、ローマ15:12-13)

今日の最後の一節は 「異邦人は彼の名に望みをかける。」です。ローマの信徒への手紙ではこうあります。

また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(ローマ15:12-13)

クリスチャンとはイエス様がくださる希望をもっている人々のことです。多くの人は様々な神様ではないものを根拠に希望を持とうとしています。自分のお金や財産、地位や名誉、家族、部族、国家、人間関係、そしてそれらみないつか予告なしに絶望に変わるかもしれないものです。またそれらは他人やそのグループに属さない人々とは共有できないものなので。共通の希望とはならずむしろ、一方の希望が他方の絶望にリンクしてしまうのです。たとえばパレスチナの希望がイスラエルの滅亡にあり、イスラエルの希望がパレスチナの滅亡にあるとしたら、それはイエス様が与えられる本当の希望ではありません。本当の希望、本当の平和は敵意の壁が壊され互いに隣人となることです。それは国と国であっても個人と個人であっても同じことです。わたしたち一人一人の力は小さくても、与えられている聖霊の力により、本当の希望を紹介することができるのです。

メッセージのポイント

イエス様は神様としてのあり方に固執せず、人としてこの世界を生きてくださった方です。だからわたしたちはイエス様の歩みを見習って歩むことができます。もちろん完全なイエス様のようにはできませんが、聖霊の力を受けてイエス様と同じように神様に喜ばれ、御心にかなって歩むことができるのです。

この歩みは言い換えるなら「隣人に仕える」ということです。それは表面的な働きではなく、一つの魂が深い思いやりを持って注意深くもう一つの魂に触れ、その魂の飢え渇きを癒す働きなのです。この働きがあらゆる敵意の壁を崩すことのできる唯一の力です。

話し合いのヒント

1) なぜ神様であるイエス様を私たちが見習うことができるのでしょうか?

2) イエス様は私たちがどう「隣人に仕える」ことを望んでおられるのでしょうか?