2003/12/28 メッセージノート
回顧と展望 申命記4:1-14
今日は今年最後の日曜です。どんな一年でしたか?来年あなたにはどのようなことが待っているのでしょうか?今朝はモーセの生涯から、素晴らしい2004年を迎えるヒントをお話します。
A. よい将来のためにする回顧(出エジプト記、民数記)
1) モーセの失敗
失敗、嫌な言葉ですね。でも失敗しない人は一人もいません。失敗を恐れていたら何もできません。
大切なことは、失敗から何かを得て、再び繰り返さないこと、より大きな失敗を回避することなのです。今日、登場してもらうモーセは、民族の父アブラハム、ダビデ王とならんでイスラエルの歴史上最も優れた指導者の一人ですが、他の二人と同様に、多くの失敗をした人でもあるのです。
人々は誰かの成功の話から成功を学ぼうとしますが、本当は失敗からより多くのことを学ぶことができます。モーセの生涯最悪の失敗は、神様の意思ではなく自分の思いつきで行動してしまったことでした。それは彼の正義感からでたものでしたが。神様の方法ではありませんでした
2) モーセは過去の失敗によって使命を見失うことはなかった
三種類の人がいます「失敗を恐れて歩き出さない人」「失敗に懲りて立ち止まる人」「失敗しても歩みを続ける人」
モーセはもちろん三番目のカテゴリーに入る人です。彼が歩み続けられたのは彼の力や意思ではなく、神様の召命によるものです。
召命という言葉は特に伝道者になることをさして使われることが多いのですが、それは神様を信じる人なら誰にも必ず与えられるものです。
召命とは神様があなたに与えられている人生の計画です。今あなたのしていることが「このことのために、自分のすべてを打ち込んで働きなさい」という神様の計画であるなら、それはかならずなるのです。
どんなに優れた人の決意でも、打ち砕く困難は沢山あります。しかし神様の召命に応えて歩んでいる人を止めることは誰にもできません。
3) モーセ自身は約束の地に入ることはできなかった(申命記3:23-29)
わたしは、そのとき主に祈り求めた。「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」 しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。 ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。 ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」 我々はこうして、ベト・ペオルの前にある谷に滞在していた。
皆さんはあれだけ労苦を重ね献身的に民を導いたモーセが約束の地に入れなかったことをどう思いましたか?
しかしそれはモーセだけではなく、紅海を渡ったほとんどのひとは、カレブやヨシュアといったごく少数の例外を除いては皆無だったのです。
私たちは時々神様の計画が人の計画より長いものであることを忘れて自分の手で完成できないことに落胆しますが、私たちはバトンを受け取り、また渡すのです。自分の小さなことを嘆かずに、神様の大きな計画に用いられていることを喜びましょう。
B. 展望は高すぎず低すぎず
1) 主に忠実に従う(4:1-4、黙示録22:16-21、フィリピ2:12-18)
イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。 あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。 あなたたちは、主がバアル・ペオルでなさったことをその目で見たではないか。あなたの神、主はペオルのバアルに従った者をすべてあなたの間から滅ぼされたが、あなたたちの神、主につき従ったあなたたちは皆、今日も生きている。
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」 “霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
大晦日には多くの人々が神社仏閣に行き、一年の無事を感謝し、来年の幸を祈って懐の痛まない程度に賽銭を投げることでしょう。
誰でも一年の幸福を願います。でも一年の最初で最後の初詣で与えられるなんて虫が良すぎると思いますか?
聖書はもっといい方法を提案してくれています。究極の幸せ、永遠の命を手に入れる方法は「神様の教えに忠実である」ということです。
神様の教えはどうしたら知ることができますか?それは聖書に書いてあります。
でも聖書はちょっと難しいところがあるし、どうやって実生活に適用したらいいか分からない。だから教会があるのです。
私たちは聖書でもつい自分の都合のいいように解釈してしまいますが、教会の仲間と交わりをすることによって、自分の信仰をある程度客観的に見ることができ、また互いの信仰が観念的なものではなく、実生活に即したものになるよう助け合うことができます。
神に選ばれたイスラエルの民の中にも、主に背いた為に裁かれ滅ぼされた人々がいたように、私たちは主に選ばれているはずなのに、その偉大な恵みを忘れて神様から離れてしまう弱さを持っています。
不安定な世の中を恐れないで生きる秘けつは、神を畏れ、神の前に日々ひざまずくことであることを、これからの一年、心にとめて歩みましょう。そこには必ず大きな祝福があります。
2) 生活密着型信仰(4:5-6、ルカ6:46-49)
見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。 あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。
皆さんは人から何か命じられることに慣れていますか?「聖書の言葉は神様からの命令です。」といわれたら抵抗を感じますか?
しかしそれに間違いはありません。私たちはそれを忠実に守り行わなければならないのです。みことばに条件をつけたり、割引して受け取るのでは意味がありません。神さまの掟として現実の生活の中で従わなければならないのです。
もし行いが伴わないなら、みことばを真実だと確信していないことになります。私たちにとって、みことばに従う生活は時には難しく思えます。でもその度に神様に助けを求めることができます。
助けられて乗り切れる時もあれば、失敗してしまう時もあります。失敗してしまった時は、またみことばに従い悔い改め、赦していただくのです。
地面を深く掘り下げる作業は大変ですが、岩の上にしっかり土台を築いて家を建て、安心して暮らしたいですね。
3) 主に喜ばれる礼拝(4:7-8、ローマ12)
いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。 またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。
イスラエルの民は主から選ばれた特別な民族で特権を与えられていました。クリスチャンもまだイスラエルの民と同様の特権が与えられているのです。
それはいつでも「主の近くにいられる」という素晴らしい特権です。この特権を行使する時、私はより良い心の状態を保つことができます。
貪欲な気持ちから与える者へと変わる事ができます。人に対する怒りや感情をコントロールし平和を保つことが出来ます。
せっかく神様のすぐそばのS席で礼拝できるという特権を持ちながら、近づこうとせずに、遠くのC席から神様を見ているような信仰生活はもったいないと思いませんか?
もちろん私が言っているのは礼拝ではできるだけ前の席に座ったほうがいいということではありません。イエス様との心の距離の問題なのです。それは心を込めて礼拝をささげること、日曜の朝だけではなく、日々主の前に出る機会を作ることがこの距離を縮めてくれます。
4) 子供たちに語り伝える(4:9-12)
ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。 あなたがホレブであなたの神、主の御前に立った日、主はわたしに言われた。「民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。」 あなたたちが近づいて山のふもとに立つと、山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていた。 主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。
次世代に信仰を継承するためには、大きな責任が親や教会にあります。皆さんは聖書が育児書でもあることをご存知ですか、聖書は○○博士の育児法のような具体的なことは書いてありませんが、子供を育てる上での根本的な親のあり方を教えてくれます。
それは親である私たちがまず聖書に聞き従うということが基本だということです。つまり自分が神さまの命令を守り、愛し合って生きていなければ、そう口で教えても子供に何の効果もありません。
5) 十戒を意識する(4:13-14、出エジプト記20)
主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。 主はそのとき、あなたたちが渡って行って得ようとしている土地で行うべき掟と法をあなたたちに教えるようにわたしに命じられた。
神様がモーセを通して民に与えられた十戒。この原則は倫理の基本として今の社会でも通用するものだと思いませんか?
十戒が守られていたなら、きっとこの世界は今よりずっと平和なものになっていたでしょう。でも与えられたイスラエルの民もそれを守ることができませんでした。
人間の理想的なあり方と自分の内面を比べてみると、その差にがっかりしてしまいます。でも神様はあきらめず、私たちを見捨てられませんでした。イエス・キリストとして神様のほうから世界に来てくださったのです。
しかも神様の救いの計画ははじめからイスラエル民族に限られたものではなく、全世界に及ぶことをイエス様は宣言されました。
十戒の原点は唯一の神様にだけ従うことです。そこがしっかりしているなら、残りの部分も守ってゆくことができます。でもそこのところがあいまいで、神様よりも自分の欲望を優先させてしまうなら十戒は到底守ることはできません。
メッセージのポイント
人は将来のために歴史から学びます。あなたの祝福に満ちた未来のために聖書を読み、自分史(特に2003年)を建設的に回顧しましょう。モーセは民に対する自分の最後の義務として、また今まで彼らを導いてきた集大成として今日の聖書の箇所を語りました。私たちはユアチャーチとの歴史の一つの章を終え、新しいページを開こうとしています。継続してゆくべきこと、やめてしまうべきこと、新しく始めるべきことを主によく聴いて歩んでゆきましょう。
ミニチャーチのためのヒント
1) 2003年に受けた恵みベスト10 を披露しあいましょう
2) 自分にとっての2003年においてゆくべきこと、2004年に持ってゆくこと、2004年に新しく始めたいことは何ですか?