2004/1/4 メッセージノート
誰に何を期待するのか? マタイ14:13-21
今朝2004年の最初のメッセージとして、久しぶりにマタイの福音書のシリーズに戻り、イエス様のなさった代表的な奇蹟を通して、今年一年の歩みのための導きを神様から受け取りたいと思います。
イエス様は地上での生涯の中で多くの奇蹟をなさったことが福音書に記録されていますが、4つの福音書のすべてに記録されているのは今日紹介する奇蹟たった一つだけです。
福音書の記者たちが共通して、イエス様のことを後世に伝えるためにはずすことのできない重要な出来事と考えていたわけです。
イエス様の奇蹟はそこに居合わせた当事者にとってだけ意味があるわけではなく、私たちにも重要な意味があります
ある人は、奇蹟のようなことさえ書かれていなければ聖書を信頼できると言います。奇蹟を取り除いたとしても、聖書は道徳・哲学の本として素晴らしいものであることは間違いありません。
しかし、そこからは神様が聖書を通してあなたに与えようとしておられる「生きる力」を受け取ることはできません。
それではこれから紹介する奇蹟を通して、今年も神様とともに歩む恵みに満ちた年とすることができる方法を探りましょう。全体を読んでみましょう。
A. 2004年を霊的栄養バランスを回復する年にしよう (13-14)
1) 自分に欠けていることを知ろう
はじめに注目したいのは最初の2節です。
イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。(13-14)
イエス様が聞いたのは14章の1-12節のバプテスマのヨハネがヘロデ王に殺された事件でした。
イエス様が宣教を始め、その奇蹟や癒しが評判になると、王はイエス様のことを殺したはずのヨハネの再来ではないかと恐れました。そこでイエス様も身の危険を感じて地方に退いたのです。
群集はイエス様が必要を満たしてくださる方であることを知って、遠くまでついていったのです。
今でも人々の多くは空虚さ、不足感、精神的な飢え渇きで、「何かに満たされたい」と願い行動します。しかし多くの人は自分に何が足りないのか?もっとひどい場合には自分が何かを必要としていることさえ気付かずに、ただ「おかしいなあ、人生こんなはずじゃないのになあ?」と思うだけなのです。
あらゆる問題解決の第一歩は問題があるということを知ることであり、その次に何が問題なのかを知ることであり、その問題をどこに持っていったらよいのかを知ることです。
2) イエス様に癒していただこう
私が皆さんにお伝えしたいことは、問題がどのようなものであれまずはイエス様の所へ持ってゆくのが最善の方法だということです。
当時の人々がそうしたように、皆さんにもイエス様の「追っかけ」になってほしいのです。そうするならばイエス様は憐れみ深い方で、必ず解決を与えてくださいます
3) リハビリテーションを始めよう
この季節になるとそろそろスノーボードに行きたいなと思うのですが同時に、十何年か前のように足を折るわけには行かないなと思います。
ほんの数週間の入院でしたが、折れたほうの足はすっかり堅くなり筋肉も落ちて、元通りになるまでずいぶん時間がかかりました。
その間に医師に勧められたのは、ただ弱った足をかばうだけではなく積極的に鍛えるということでした。
神様はあなたを癒してくださいます。その時、私たちは本当にイエス様の深い憐れみを感じますが、イエス様が癒してくださった後、今度は私たちが汗を流して自分の魂を鍛える番です。
どんなに素晴らしい愛をいただいてもその使い方は自分で学ばなければならないのです。そこでもまた私たちは傷つき、悲しい思い、いらだたしい思いをするのです。そしてこのような不完全なお互いを許しあい受け入れあうことができる場所が教会なのです。
それでは次の2節に注目しましょう。もう一度読んでみます。
夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
B. 2004年を信仰が飛躍する年にしよう (15-17)
1) 「私たちにはできない」という先入観を追放しよう
そこには一万人前後の人々が集まっていました、人里はなれた所です。日も暮れてきました。弟子たちは少しあせり始めたのです。自分たちもお腹がすいてきたのかもしれません。「そろそろ解散させて、食事にしませんか?」というのが本音だったのかもしれません。
しかしイエス様にとってはこれからがクライマックスだったのです。誰も忘れることのない方法でご自身がどのようなものであるかを知らせようとなさったのです。
イエス様は「私が与えよう」とはおっしゃいませんでした「あなた方が与えなさい」とおっしゃったのです。皆さんは自分に神様の奇蹟が起こることを期待しているかもしれませんが、神様はあなたを通して奇蹟がなされることを考えておられるのです。
確かにモーセがしたと同じ奇蹟が紅海で再び起こったことはありませんが、MLキング牧師はモーセが紅海の水を分け道を作ったようにアメリカのマイノリティーが公民権を獲得する道を作りました。
エリヤのように死んだ子供の命を蘇らせる奇蹟を見ることはありませんが、道の傍に捨てられた病気の老人や、栄養失調の子供はマザーテレサたちの働きによって、元気になったり、少なくとも人間的な環境と優しい人たちに看取られて天に帰ることができているのです。私はこれらを現代の奇蹟だと思っています。
弟子たちは「私にはできない」という考えにとらわれていましたから、5つのパンと2匹の魚では、みんなを満足させることはできないとはじめからあきらめ気味でした。しかしイエス様の言うとおりにしてみたのです。
ここに彼らの信仰の飛躍があります。そして彼らは人々の必要を満たすことができました。振り返って私たちのことを考えてみましょう。
この小さな教会に何ができるのか?人も物もお金も十分ではないなーと思いますか?
2) 「私の神様は何でもできる」という確信を持とう
でもあなたの信じる神様は全能の方ではないのですか?そうであるなら今の私たちがどうであるかで、何ができる、できないと考えるのはおかしくありませんか?
この国でささげられた献金の10パーセントを海外宣教にささげている教会はそれほど多くはありません。
複数の宣教師を送り出したりサポートしている教会も、牧師を他の大陸の宣教のために派遣する教会も多くはありません。
牧師が言うと自慢になってしまいますが、皆さんにはこのことを誇ってほしいと思います。それは「私の神様には何でもできる」という信仰告白なのです。
それでは残りの部分を読みましょう
イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。(18-21)
C. 2004年を「イエス様にもっと期待する年」にしよう (18-21)
1)奇蹟は過去の恵みを思い起こさせてくれる
皆さんはイスラエルの民がどのようにエジプトを脱出してカナンの地にたどり着いたのか読んだことがあると思います。この荒野の旅の中で何度か民は深刻な食糧危機、飲料水の不足に教われましたが、そのたびに主なる神は奇蹟を起こされ飢え渇きを癒されました。
その後この民はこのときの恵みを何度も忘れては危機に陥り、奇跡を見て立ち返ることを何度も繰り返してきました。
今の私たちには実際の飢え渇きはないかもしれません。しかしもっと深刻な心の、魂の飢え渇きに苦しんでいる人が大勢いることを私たちは知っています。
ここにいる多くの人々も様々な危機を種の奇跡的な介入によって救われ今があると自覚しています。
自分ではどうすることもできない危機から主によって救われる経験は、自分の無力と同時に自分を助けるために全能のお方が、どんな時代にあっても介入してくださるということを思い起こさせ、心に焼き付けてくれるのです。
2) 奇蹟は将来の希望を確信させてくれる
「私には主の用意された素晴らしい計画がある」と思える人はなんと幸せなことでしょう。
このような人は人生が思い通りにならないからといってくよくよしません。またどんなことがあっても絶望しません。
それは神様が私の人生の危機には必ず奇蹟を持って介入してくださるという確信があるということです。
メッセージのポイント
イエス様は人間的な常識にとらわれず、私たちの必要を満たしてくださる方です。せっかくイエス様が与えようとしているものを私たちのほうで過小評価してしまうなら、神様が用意してくださったあなたの人生に必要なリソースなしで歩むことになってしまいます。神様が与えてくださるものを感謝してしっかり受け取ることにより、それを誰かに惜しみなく与えることができるのです。
ミニチャーチのためのヒント
1) あなたは今年どんな導きをイエス様に期待していますか?
2) あなたは今年どんな信仰的飛躍を自分に期待していますか?