2004/2/1 メッセージノート  

人の心を汚すもの マタイ15:1-20

「伝言ゲーム」ってやったことがありますか?二つ以上のチームをつくりそれぞれの最初一人に同じメッセージを伝えます。それぞれのチームはそれを一人ずつ順番に伝えていって、最後の一人に最初のメッセージが正しく伝わったかどうかを競うものです。たいていの場合は人が多ければ多いほど内容はひどく変わってしまいます。 当時のイスラエルの宗教指導者たちは守るべき法として、文章となっている「旧約聖書」だけでなく、その説明や細かい付け加えとして「言い伝え」を旧約聖書と同じくらい、時にはそれ以上の権威として教えていました。でもこの言い伝えは、最初の出題者、つまり神様のメッセージとはまったくかけ離れてしまったようです。

A. 人の言い伝え V.S. 神の言葉 

そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。(1-6)

1)伝統に固執すると律法主義を経て神の言葉から離れてしまう

ここで手を洗うといっているのは、イエス様の弟子たちが自動車整備の後グリスの付いたままのべたべたした手で食事をする、といった単純な意味で言っているわけではありません。そうではなく言い伝えで定められた食事の前の複雑な儀式のことでした。彼らの言い伝えに従うなら、まずすくなくともたまごのからの1.5倍以上の水を使わなければなりません。それを両手にかけ、指先を上に向け手首の下まで落とす。次に指先を下にして反対側に水をかけ、最後に片手ずつ、反対の手のこぶしでこする。というものでした。イエス様はこういった人の考えた儀式を行うことでは神様に従うことにはならない。むしろ神様の言葉に逆らっている。ということを指摘したのです。

ファリサイ派、律法学者たちは、この間違いを犯していました。彼らが聖書だけでは不十分だからそれを補うために「言い伝え」を重視したことと、キリスト教といいながら聖書では不十分なので他の経典を付け足す。という試みは同じことです。それはキリスト教の枠に収まらなくなってしまったばかりか、社会的にも問題視されるようなカルトまで生み出してしまいました

2)伝統を完全に否定してしまうと神秘主義を経て神の言葉から離れてしまう

イエス様は5:17で「私は律法と預言者(旧約聖書)を捨てるためではなく完成するために来た」と言われました。現代のクリスチャンは旧約聖書に親しむことが少なすぎます。確かにイエス様の言葉や行動が記されている福音書は聖書の中心ですが、教会は聖書全体を「神の言」として受けとっています。長いキリスト教の歴史の中に何度も、新約聖書の特定の書だけを強調する異端が現れ、2000年の歴史の中で引き継がれてきた信仰の伝統を捨て去ろうとしました。聖書から特定の部分から自分の考えで強調したり、無視したりすることは、自分の考えを「神様」にしてしまうということです。イエス様・聖書・教会なしに神様とつながることはできません。

3)神の言葉に立ち返る

旧約聖書の中には何ヶ所か「右にも左にもそれないで神様に従って行く」という言葉があります。どうしたらそのようにできるのでしょうか?それは何よりも聖書から聞くということを心がけることです。

B. 神の言葉から離れていることが心の汚染の原因

偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」(7-9)

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(10-11)

そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(12-14)

するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。(15-17)

しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(18-20)

1)神様から心が離れていても敬虔を装うことができる

7節から9節はイザヤ書29章13節の引用です

2)神様から心が離れた人は「正しさの感覚」が麻痺して心が汚れてしまう

3)汚れてしまった心から出てくる言葉は、人の心を汚してしまう

4)だから心を良いもので満たそう

メッセージのポイント

私たちの魂の栄養は「神の言」です。それは聖書から直接、あるいは誰かを通して得ることができます。しかし聖書のメッセージを正しく受け取らなければ、それは栄養どころか害になってしまいます。ファリサイ派や律法学者は「神の言葉」から出発したのにそこから遠く離れてしまいました。この危険が私たちにもある事を忘れることはできません。聖書の言葉を巧みに使って人々を真理から引き離そうとする試みはキリスト教の歴史の初めから今に至るまで続いて存在しています。この試みから魂を守る方法は、神の言葉そのものに立ち返ること、人の解釈や教えをよく聖書に照らして吟味することです。

ミニチャーチのためのヒント

1) イエス様はなぜファリサイ派や律法学者を非難したのでしょうか?

2) 心が汚れているというのはどのような状態を指すのでしょうか?