2004/3/21 メッセージノート

イエス様を正しく伝える方法 Making Jesus Known Accurately

それではまず今日の聖書の箇所全体を読んで見ましょう。 今朝は、二つのことを通してどのようにイエス様を正しく伝えて行くかということをお話します。

第一のことは第一節に書かれていること 「イエス様が2,3人という小さな交わりを用いて大切なことを伝えられた」ということについて考えてみましょう。

A あなたのペトロ、ヤコブ、ヨハネはいますか?(1)

Do you have your 'Peter', 'James', and 'John' in your life?

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。(1)

イエス様には12人の弟子がいましたが、その中でもペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人が初代教会のキーパーソンとして用いられることを、その性質や賜物から見ぬいておられました。そこで、この三人にはリーダーとしての備えをさせようとしたのです。この場面以外にも何度かこの三人だけを伴われたようです。

数年前、私の指導者・ラルフと「牧師としての責任とは何か?」という話をしていました。その時、彼は私に「あなたのペトロ・ヤコブ・ヨハネを育てていますか?」と聞いたのです。そして「牧師の責任はいろいろあるけれど、その人にとっての三人を育てる事は最も大切なライフワークだと思うよ」といわれました。2人以下でも3人以上でも良いのでしょうが、イエス様でさえ直接真意を伝えたのは3人だったということを考えて見る必要がありそうです。


1) 二人か三人という大切な単位 Two, or three, is an important unit

「イエス様は世界のすべての人に福音を伝えなさい」と私たちに命じられましたが、それは大勢の人を前にして伝道集会を開くことだけを意味するのではありません。

イエス様の教えは、言葉だけのものではありませんでした。イエス様は地上での生涯、特に弟子たちと歩まれた最後の3年で、神様に従って歩むもののライフスタイルを、身をもって彼らに伝えました。その中でも最も重要な核心は、12人一緒には伝えることは出来なかったようです。

それはそれぞれの個性、賜物、能力の違いといったことだけでなく、少人数のほうが正確に伝えやすいというコミュニケーション理論を知っておられたからです。

というより現代のコミュニケーション理論やリーダーシップ論のほうが聖書から学んだのかもしれません。

学校で言えば大教室のクラスとゼミ、教会で言えば礼拝とミニチャーチ、大きな集まり、小さな集まり、それぞれに適した目的があります。イエス様も福音を伝えるために、大集会、弟子たちだけに開かれた機会、3人にだけ与えた機会を効果的に使い分けられたのです。

2) あなたの3人はどこに? Where is your 'three'?

さてミニチャーチでは、あなたはやがて牧者として成長してゆきます。すでにミニチャーチの牧者として歩んでいる人もいることでしょう。神様は私たち一人一人に、言葉のメッセージだけではなくあなたの生涯を通して主にある生き方を、多くの人にではなく、2,3人の人にじっくりと伝えることを期待しておられるのです。

わたしはラルフと話してから、私の3人は誰ですか、どこにいますか?教えてください。今かかわりのない人であるなら、与えてくださいと祈り始めました。

別に公に公表することはないのです。あなたの心の中で、この人には生涯をかけて、言葉だけではなく生き方を通して主を伝えようと、心に決めて接すればよいのです。問題は、自分は誰のペトロ、ヤコブ、ヨハネかということではありません。誰を自分のペトロ、ヤコブ、ヨハネとして、あなたの持っているよいものを惜しみなく与えるかということなのです。そしてそれは誰か3人に特権を与えるということではありません。あなたが3人を育てれば、後にこの3人は自分の3人に同じことをしてゆくのです。

B イエス様の神としての現れ Jesus' appearance as God

1) モーセとは異なる輝きをもって(2-3) Having a brightness that is different from that of Moses

それでは今日の第二のポイントとして2節以降から「神様としてのイエス様をどう理解するかというか」ということを考えてみましょう

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。(2-3)

ここで3人は、日ごろは生活を共にする先生としてのイエス様とはまったく異なる神々しいイエス様を目の当たりにします。旧約聖書に親しんでいたペトロはモーセのことを思い浮かべたのでしょう。モーセもシナイ山で神から語りかけられたときに、その栄光が彼の顔を輝かせたこと(出エジプト34:29-)を知っていたからです。しかしイエス様の場合にはモーセと違いマタイが「太陽のように」と表現しているように、反射して輝いていたのではなく、光そのものの輝きだったのです。このとき3人はイエス様が単なる先生ではなく神様ご自身であることを強烈に印象付けられました。モーセとエリヤとイエス様はルカの説明によるとこれから起こる受難のことを語り合っていました。

2) ペトロの混乱(4-5) Peter's confusion

ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。(4-5)

ペトロはこの異様な事態に驚き、興奮し自分でもわけの分からないことを口走り、ついに神様からさえぎられてしまいます。神様の声を直接聞いてしまった。それは彼らの心を最高の恐怖に陥れたのです。

3) 恐れの感覚からインマヌエルの感覚へ(6-8、イザヤ42:1)

From the sense of fear to that of Immanuel

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。(6-8)

しかし神様は恐れさせるだけではなくちゃんとガイダンスしてくださっています。神様の語りかけの内容は「私が誰よりも愛し、信頼しているイエスに聞きなさい」というものでした。この神様のイエス様に対する信頼の言葉はイザヤ書やヨハネのバプテスマの記事にも記録されています。

イエス様はいつの間にかいつもの先生の様子に戻られ優しく「恐れることはない」と語りかけられました。三人の弟子たちはここで、イエス様という存在を通して本来なら恐ろしくて顔を上げられないような神様が、誰よりも親しく慰めに満ちた方としてともにいて下さるということを、身をもって知ったのです。

C イエス様を信じるということは What believing in Jesus means

1) イエス様ご自身は社会改革者ではない(9) Jesus himself is not a 'social reformer'

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(9)

最近のメッセージでも何回か触れましたが、人々の期待するメシアとイエス様のお考えとは違っていました。人々はイエス様が政権をとって手っ取り早く社会を変えてもらいたいと考えていたのですが、イエス様はすべての問題、不幸の原因である人の心の中の罪を赦すことを使命とされていたのです。

私は鵠沼海岸に波乗りに行くのですが、あまり水はきれいではありません。ケミカルなにおいまでします。この場所に一本の川が流れ込んでいるのですが、それは教会のすぐ近くを流れている境川なのです。水源は町田から数キロの所にある比較的きれいな湧き水ですが、すぐに生活廃水、工場廃水も流れ込んで臭く濁った水として海にたどり着きます。ですから海をきれいにしたいと思うなら、まずそこに流れ込む川の水質を変えなければ意味がありません。

社会も同じです。社会の汚れは海の汚れと同じように、そこに流れ込む川のような一人一人の罪の汚れの集合だからです。イエス様は私たちの心を変えてくださる方なのです。そしてイエス様によって心を変えられた人々こそが社会を変えてゆく力を持っているのです

2) 預言と成就(10-13) Prophecy and its fulfillment

彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(10-13)

イエス様に間違った期待をかけてしまう私たち人間ですから、せっかく旧約聖書に記された預言も正しく理解することは難しく、当時の人々も例外ではありませんでした。しかしイエス様が旧約聖書で預言されたメシアであることは、人々の間違った期待にもかかわらず真理なのです。

メッセージのポイント

イエス様の神性は私たちが捉えにくい側面ですが、それを無視してはイエス様を正しく知ることはできません。イエス様はその神性を少しずつ弟子たちに悟らせるために、信仰の度合いや、霊的な理解力から見て信頼にたる3人だけを山上につれてゆきました。イエス様はこの3人に特権を与えていたのではありません。イエス様にとってはこの人たちに一番真意を伝えやすく、また結果として全ての弟子たちにも効果的に正しく伝わる方法だったのです。私たちもまた聖書の真理を正しく、効果的にリレーしてゆくために、ミニチャーチで自分のペトロ、ヤコブ、ヨハネを育てましょう。

Although the divinity of Jesus is hard to grasp, we cannot accurately know Jesus if we ignore it. In order to reveal his divinity to the disciples gradually, Jesus took the three, who he saw as being trustworthy because of their faith and spiritual perceptiveness, up the mountain. This does not mean that he gave them special 'privileges'. Rather, they were simply the best individuals through whom Jesus could reveal his intention to the disciples most effectively. We, too, should raise up our 'Peters', 'James ', and 'Johns' in order to understand the truth of the Bible and accurately and pass it on.

ミニチャーチのためのヒント

1) 天の声が聞こえた時の弟子たちの畏れの気持ちはどのようなものだったのでしょうか?

What was the fear that the disciples sensed when they heard the voice from heaven like?

2) あなたのペトロ、ヤコブ、ヨハネは誰ですか? Who is your Peter, James, and John?