2004/4/4 メッセージノート

十字架 - 私と何のかかわりがあるのか?

The cross: what does it have to do with me?

今週は受難週とよばれるイースター前の特別な週です。クリスチャンにとって自分のアイデンティティーを考える上で一年で一番相応しいときといえるでしょう。 

教会は伝統的にこの時期、あまり派手なことを避け、贅沢な食事を避け、黙想や祈りに集中しました。家族で話し合って今週は肉は食べないとか、アルコールを避ける、決めた日に断食をするなど、してみるのも意義深いことです。ここはユアチャーチですから、教会がああしなさい。こうしなさいとは言いませんが、せめて十字架にかかられた日つまり金曜日には高級レストランでディナーとか、ミスタービーンのヴィデオを借りてきて爆笑することは避けましょう。

そして今日一緒に見てゆく聖書の箇所をじっくり読んでみてください。

A パウロが伝えたもっとも大切なこと(1コリント15:3-4)

The most important thing that Paul taught

それでは始めに、わたしたちが大切にしている聖書の教えの中でも最も大切なことがこの事です、と前置きして使徒パウロが伝えたことばを聴いてください。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと(です

「あなたは何を信じているのですか、1分以内で説明しなさい?」と聞かれたときにはこう答えることができるのです

1) 預言されていた出来事(イザヤ53:1-12)

The event that was prophesied

パウロはこのことが聖書(つまり旧約聖書)に預言されていることだ、と言っています。その代表的なのがイザヤ書の53章です。開いてみましょう。

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

十字架の出来事は、そのときの成り行きの偶然ではなく神様の深い計画の中にあったことだったのです。

2)それはあなたの罪でもある(ヨハネ1:29, ルカ27:47)

It is your sin as well

そしてこのことを私には関係がないと、言える人誰一人いないのです。イエス様の死の責任はユダヤ人ではなく、私やあなたを含めたすべての人あるのです。聖書が言う罪とは神との関係を持たず自分中心に生きる生き方のことであって、法律を破ることではないのです。そして人間のもって生まれた性質は残念ながらそれ自体「罪」の性質を最初から帯びているのです。

3) コインの裏と表のような「十字架」と「復活」の関係

The cross and the resurrection: two sides of the same coin

パウロは最も大切なことを十字架だけでも、復活だけでもなく一連のこととしていることに注目してください。

もし十字架で福音書が終わりだったとしたら、イエス様は身代わりとなって苦しまれたという事実だけが、その苦しみによって赦された罪びとの肩に重くのしかかるだけです。私達はことあるごとにイエス様ごめんなさいと言い続けながら生きてゆかなければならないでしょう。

復活については来週詳しくお話をしますから、一言だけお話しておきたいのですが、主は死に打ち勝たれた、死んだままではいなかったということは、私たちもまた赦された喜び、勝利の喜びをもって生きることができるということです

B なぜ神様が私のために?(1コリント1:18-31)

Why did God do this for me?

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

1) 下から見た十字架The view of the cross from below

十字架の出来事には2面性があります。人の目から見上げるならそれは一人の政治犯か思想犯が、権力に逆らうとこうなるという見せしめとして公開処刑されたと言うことでしかありません。それは人の視点からの理解ですから誰にも分かりやすいものです。この面だけを見るなら、単に歴史の一幕であり、自分にはかかわりのないことだと結論付けることができてしまいます。ユダヤ人のメシア観からいって、十字架にかかるのは敗北者であり、イエス様がメシアとは受け入れがたいことです。

一方ギリシャの哲学者から見れば、きっとあなたも信じていなかったときにはそう思っていたと思うのですが、私には罪などない、あったとしてもイエス様の身代わりの十字架で自分が赦されるなんて理解できない、馬鹿馬鹿しいことだったのです。

2) 上から見た十字架The view of the cross from above

神様はこの出来事にまったく異なる理解を与えてくれました。しかしこの理解は、自分は罪がない、正しい考えを持っている、強い、賢いと考える人には理解できませんでした。それは今の世でも同じです。

ところが不思議なことに、自分が弱く、愚かで、罪深いことを憶えているものには、この理屈を超えた恵みの言葉が真理であることを受け入れることが出来たのです。

ある人は「神を信じるなんて、現代に生きる私の常識がそれを許さない」と言いましたが本当は「自分は弱くて、神様が必要です」と言いたくないプライドがそれを許さなかったのではないでしょうか?

3) あなたも神様の赦しを受け入れよう・伝えよう(ヨハネ3:16-21)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

私達は自分がどれほど無力であるかということを、できるだけ意識しないように生きています。しかし冷静に自分を振り返るなら、自分が絶望的に無力であることを認めなければなりません。しかしここから道は開けるのです。そしてこの道はたった一つ絶望を回避することの出来る神様につながる道、真理につながる道、永遠の命に至る道なのです。

メッセージのポイント

十字架の出来事からおよそ2000年の時がたとうとしています。救い主を十字架にかけた罪とは、神様を否定したという罪です。特定の民族や、時代に限らず例外なくすべての人にこの罪があります。神様を否定するということは、神様の義、神様の愛を否定することです。ほとんどの人は無意識のうちにこの罪を犯してきました。十字架はこの罪を私達に自覚させるだけではなく、神様のほうから見れば私達を赦す手続きだったのです。

Nearly 2000 years have passed since the time of the cross. The sin that put the saviour on the cross is the sin of denying God. Everyone, regardless of ethnicity or time, is guilty of this sin. To deny God means to deny God's righteousness and love. Most people have been committing this sin unconsciously. The cross was not only what made us aware of this sin but, from God's perspective, it was also the way for us to be forgiven.

ミニチャーチのためのヒント

1)イエス様はなぜ十字架にかかられたのですか?

Why did Jesus go on the cross?

2)それがなぜ2000年後に生きる私たちのためにもといえるのですか?

Why can you say that it was also for us, who live 2000 years after the event?