*2004年4月25日メッセージノート*
「神の国のリーダーシップ理論」 Theory of Leadership in the Kingdom of God
(Mat. 18:1-14)
まずは今週のニュースをひとつ紹介しましょう。
【ニューヨーク19日共同】米マクドナルドの経営立て直しに手腕を発揮したカンタルポ会長兼最高経営責任者(CEO)が19日に急死したことに伴い、アルバイト店員からスタートした「たたき上げ」のチャーリー・ベル氏(43)がトップに就任した。
ベル氏は、オーストラリア出身。15歳の時にシドニーのマクドナルド店舗でアルバイト店員として働き始め、19歳でオーストラリアで最年少の店長、27歳で現地法人役員に昇進、頭角を現した。
彼がCEOとして持っているほかの人にないアドヴァンテージは、まだレジも打たせてもらえず、パテも焼かせてもらえず、店内の清掃ばかりさせられているアルバイトの気持ちを自分のこととして知っているという点です。掃除をしていた、レジをうっていた、マックフライを揚げていた、ひとつの店のマネージャーだったときの自分立場をこのことを忘れなければきっと良い仕事をすることでしょう。
アメリカの大きな本屋さんに入って、リーダーシップに関する本のコーナーに行ってみると、そこで立ち読みしているのはすぐれた経営者になりたい(まだなっていない)ビジネスマンか、教会運営で悩んでいる牧師に会うことが出来ます。実際にある牧師は神学書よりビジネス書を沢山読んで、リーダーシップの専門家になり、経営コンサルタントとしての方が有名な人もいるくらいです。向上心を持っている牧師なら5冊や10冊のリーダーシップに関する本を持っているはずです。
牧師だけではなく、誰でもどこかでリーダーでありまた違う場面ではフォロアーです。学生は教室ではフォロアーですが、放課後の部活ではリーダーかもしれません。会社ではCEOか、今日入ったばかりの新入社員以外は皆フォロアーでありリーダーです。またクリスチャンであるならば、皆イエス様の弟子ですが同時にこの世界に対してはイエス様に任命されたリーダーなのです。だから誰も「自分にはリーダーシップ理論なんて関係ない」とはいえず、このことについて学ぶ必要があります。しかし気をつけなければいけないことがあります。
それはどんなリーダーシップ理論を学ぶにせよ、聖書の教えるイエス様のリーダーシップ、神の国のリーダーシップの原則にそれが適っているかどうかということです
A.小さな者になる Becoming "like little children"
1) 偉さの基準はこの世と違う The measure of greatness is different from this world
弟子たちの「誰が一番偉いか」という争いは、イエス様がその死と復活を予告(17:22-23)された後に起こっています。もう一度イエス様が予告(20:17-21)されると再燃し、最後の晩餐の席(ルカ22:24-33)でも繰り返されています。
社長亡き後誰がCEOになるか、親分亡き後誰が跡目を継ぐか、というのと同じレベルで、人間の組織としての教会はこの過ちをずっと繰り返してきました。残念ながら私達は皆赦された罪人に過ぎません。しかしイエス様は誰が一番偉いかには興味を持っておられないようです。
それでは1節から4節までを読みます。
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
ルカによる福音書の22章24-30節も読んでおきましょう。
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
これらのイエス様の言葉が意味することは「謙遜になりなさい」「もっと低い視線でも、ものを見られるようになりなさい」「仕える者になりなさい」ということです。イエス様はそれを「子供のようになる」と表現されました。心を「入れ替えて」とありますが、それは誰もがこの大切なことを忘れてしまっているということです。
2) 子供のようになるとは?What does is mean to become like a 'child'?
それではまたどうしたら子供のようになれるのでしょうか。わたしは大人になってから生まれた町を数十年ぶりに訪れた時、とても驚いたことがあります。思いっきり体を動かし、走り回り、野球をし、たいていの遊びには十分だった記憶のある、家の前の道が実はかなり狭い路地だったということです。今初めてこの道を見るなら、なんと狭くつまらない取り柄のない路地だろう、と感じるだけだったと思います。目の高さが高くなることは、良いことばかりではないのです。いつも上から見下げている態度は、本当に良いものを見失ってしまいます。落ちてしまったコンタクトレンズを立ったまま探す人はいません。見つかりにくいばかりか踏みつけてしまう恐れがあるからです。人の心と触れ合うときにもまったく同じ注意深さが必要です。その人と同じ高さにたってあげられるかということが問題です。
姦淫の罪で捕らえられた女性を攻め立てるように取り囲んでいる人の中で一人身を低くされ、「そのように攻め立てるあなた方にはまったく罪が無いのか」と問い返し彼女を救いました。イエス様は、子供や女性、罪人とみなされていた人、病人つまり弱い者には同じ目の高さで接し助けました。イエス様の憐れみは上から見下す憐れみではなく、同じ所に立って喜びも悲しみも苦しみもともにする憐れみだったのです。
今でも一般的に教会で女性が多いのはそこからきているのかもしれませんね。昔からイエス様は自分が偉くなりたい男性には厄介な存在で、女性や子供たちのヒーローだったのです。ユアチャーチに男性が多いということは、子供っぽい人が多いということではなく、謙遜さが浸透しているということです。
B.小さな者を大切にする Valuing the "little child"
小さいものになるということは、イエス様をお手本にして小さいものを大切にするということです。
1) 大切にするべき小さな者とは Who is the 'little child' that is to be valued
小さい者とは第一にイエス様を信じ従っている者のことをさしています。5節を見てください、
わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
イエス様のリーダーシップ理論に従えばリーダーとは「仕える僕」です。その人自身の高い能力や権威ではなくただ無心にイエス様に従って行く、どちらかといえば弱く、目立たないと見られがちな人々です。しかしそこに人の弱さではなく神様の強さを見て互いに大切にすることが教会のリーダシップであり同時にフォロアーシップなのです。
第二にそれはクリスチャンでなくてもあなたを必要としている人々です。さてそれではあなたにとっての小さい者を大切にするとは実際にどうすることなのか考えてみましょう。
2) 小さな者をつまずかせない Not making the 'little child' stumble
その一つ目は「つまずかせない」ということです。6節から9節までを読んでみましょう。
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
3) 小さなもののために労をいとわない Sparing no effort for the 'little child'
もう一つの事は小さなもののために労をいとわないということです。10節から12節までを読んでみましょう。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。人の子は、失われたものを救うために来た。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
つまずかせるとは人を罪に陥れるということです。典型的なのは、クリスチャンであるあなたの言動で、クリスチャンであることを辞めたい、クリスチャンだけにはなりたくないと決意させてしまうことです。もちろん望んでいなくても誤解や弱さ、不注意から、そんなことになってしまうことはあることです。もちろんイエス様は過失を赦さない方ではありません。つまずかせたくないという強い気持ちと、できるだけの注意深さを持つということが大切なのです。
ここで11節が抜けていたり、括弧書きになっているのは古く、有力な写本にはなく、おそらく後になってルカ9:20から挿入されたと考えられているからです。
子供の頃から教会に来ている人にとってはおなじみのエピソードですが、ここから神様が私達一人一人の魂をそれぞれかけがえのないものとして大切に思っていて下さることがよくわかります。神様は小さく弱い者の危機をほってはおかれません。同じように神の子供とされた私たちもまた迷っている魂を探し出して安全な場所に連れ帰ることが期待されているのです。この頃の羊飼いは数人でーつの群を守っていたそうです。だから一人が99匹を残してー匹を探しに出ても群は守られていたのです。教会やミニチャーチも私たちが私たちに与えられているのも私たちがチームとして仕えるため、時には群の人々を信頼できる仲間に託して、たった一人の魂を追い求めるべき時もあるのです。
4) 小さなものの存在を喜ぶ Rejoicing for the existence of the 'little child'
残りの13節と14節までを読んでみましょう。
はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
この喜びの代表的なものは誰かが信仰の決心をした時、バプテスマを受けた時のみんなの喜びです。
しかしこの時だけとは限りません。むしろあなたがその人と喜びも悲しみも苦しみも楽しさも共有できることを喜びましょう
メッセージのポイント
神の国の良いリーダーの基準は、この世のそれとは異なるものです。「謙遜」、それが神の国に属するリーダーに最も相応しい言葉です。子供のような謙遜を身につけるなら、私達は実際に小さい者、弱い者を大切にする神様の意思に適った教会であることが出来ます。しかし生まれながらの罪びとである私たち人間にとって導くことと謙遜を保つこととの両立は常に神様の助けをいただいていなければ困難なことです。
The measure of good leadership in the Kingdom of God is different from that of this world. 'Humility' is the most appropriate world for the leader in the Kingdom of God. If we become humble like a child, we can become a church that values those who are 'small' and 'weak', as God wants us to be. But it is difficult for us, who are born with sin, to balance leadership with humility unless we receive God's help.
話し合いのヒント
1)子供のようになるとはどういうことですか?
What does it mean to become like a child?
2)ユアチャーチは小さな者に優しい教会になるために何かできることがありますか?
What can Your Church do to become a church that welcomes those who are 'small'?