*2004年5月2日メッセージノート*

健康な人間関係を保つには (Mat. 18:15-35)

How to maintain healthy relationships with others

誰でも人間関係で悩んだことがあると思います。家庭でも学校でも職場でも、そして教会でも人間関係がギクシャクすることがあります。これからお話しすることは、イエス様が教えてくださる人間関係の原則です。そしてこのことはきっとあなたが改善したい人間関係がどのような人との間のものであれ、応用できるものですからぜひ身につけてください。健康な人間関係を保つ三つのポイントを今日のテキストは教えてくれます。テキストの順にお話しますが、重要さの点から言えば1)祈る 2)赦す 3)過ちを正す という順番になります。祈りなしに、赦すことも、正しく諌めることも出来ませんし、祈ることはまず始めに始められることであり、関係回復のプロセスの中でも、後でも常に必要なことだからです。赦すことはあなたの心の態度です。赦すことなしに相手の過ちを正そうとしても、関係の回復は出来ません。赦しあうということが健康な人間関係の基礎だからです。


A 相手の過ちを正す Correcting the mistakes of others

良い人間関係はそれを損なうような要因がどちらにあるにせよ(大抵はどちらにもあるのですが)それを見て見ないふりをしているならいつまでも保ち続けることはできません。もし相手の非が明らかだったらあなたはどうするでしょうか?最悪なのは他の人々に言いふらす、という方法です。これは関係を壊したいときだけ使ってください。

1)初めに一対一で向き合う(15節) Begin by confronting the person one-on-one

15節を読んでみましょう

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら兄弟を得たことになる。

夫婦であれ親子であれ友人、同僚であれ、良い関係を保ちたいと思うなら、本人がそこにいるいないにかかわらず相手を悪く言うことを避けてください。どうしても言わなければならないことなら、本人に、それも他の人がいないところでしなければなりません。私たち夫婦はこの原則を、子供が幼稚園に行く前から守ってきました。なぜそうした方が良いのでしょうか?それは自尊心が傷つかず冷静に聞くことができるからです。叱る方だって他の人がいないところのほうが冷静でいられます。ひとつ叱って二つほめて「信頼してるよ、期待してるよ」とメッセージを伝える余裕も出てきます。人々の前で叱られることは、恥ずかしく、情けなく、もっと言うことが聞けなくなってしまいます。そうなるとしかっている方も興奮してきて、はたから見ると、親が子供を叱っているというより親子で喧嘩をしているようにしか見えないわけです。私の場合、今では子供たちに「ダッド、ちょっと」とかいわれ別室で「そういう言い方は良くないんじゃない?」 と叱られると「はいすみませんでした」などといってしまうのですが、これを皆さんの前でやられたら、牧師としての威厳が痛く傷つけられて、素直に認められなかったりするわけです。

2) 信頼できる証人と共に忠告する 16節 Giving a warning together with a trustworthy witness

多くの場合はその方法で解決するのですが、どうしても相手が非を認めないこともあります。そのようなときにすることが16節に書かれています。

聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人証人の口によって確定されるようになるためである。

「聞き入れなければ」と書かれているように、これは第二のプロセスです。第一のプロセスを飛ばしてここからはじめるなら相手は自分の非を認めるかもしれませんが、あなたとの個人的な信頼関係は崩れてしまいます。証人もできれば相手が信頼している人尊敬している人がよいのです。叱る方は時々叱る目的がわからなくなってしまっていることがあります。私たちが誰かを叱るのは、その人を立ち上がれなくするためではありません。自信を失わせるためでもありません。非を認め、方向転換をして歩き始めるためなのです。


3) 交わりを絶つことが必要なときもある 17・18節 The occasional necessity to cut off fellowship

不幸にも、心を尽くし忠告しても、仲間が皆で説得しても、聞く耳を持たないという場合も稀にはあります。子供のしつけで言うなら「そこまで言うなら、あなたはこのうちの子である必要はありません。出て行きなさい。という段階です。17節と18節を読みましょう。

それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦か徴税人と同様に見なしなさい。 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解ことは、天上でも解かれる。

家族でも会社でも、そこで決められた基本的なルールがあります。それをどうしても守れないなら。そこから出て少し頭を冷やしなさい。ということになります。「教会戒規」という言葉があります。教会という家族のルールをどうしても守れない人に、教会が言い渡す処置です。実際にはそこまで意識的にルールを破ろうという人はほとんどいませんから、私自身も経験がありませんが、私が最初に所属していた教派にはちゃんと成文化した規則がありました。たとえば戒告、陪餐停止、除名といったものです。この交わりを絶つというのはそのこと自体が目的であるというより、「守れないのであれば見過ごしにはしない」という強い意志があることを知らせ、人を罪や危険から守る効果があります。親子の関係で言えば「私の両親はこのことに関しては決して許してくれないから、これをするのであれば私は彼らの子ではなくなる覚悟がいる」と思わせることです。もちろん両親の基準が一致していなければなりませんし、基準が時によって変わることも子供を混乱させますから、まずは夫婦の一致が大切です。教会ではどうでしょうか?教会がメンバーの姦淫を黙認していたら、それはほかの人にも罪を犯すことを消極的に勧めることになり、教会は教会とはいえない罪の家になってしまいます。18節のつなぐこと、解くこととは罪を赦す、赦さないということを意味しています。教会であれ家族であれ、そのメンバーの罪を正しく取り扱う権威と義務が与えられているということです。

B 祈る Pray

それでは一番大切な「祈る」ということについて次にお話します。19節と20節を読みましょう。

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。(19) 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 (20)

この箇所だけを抜き出して読むなら、「2人で祈れば何でも聞かれるのか?」と思ってしまいますが。「神様に教会が与えられている罪の赦しの権威」というコンテキストの中で語られていることを忘れてはいけません。ここは人間関係回復の願いに、最も良いやり方で答えてくださる、と考えてください。

1) 祈りなくして健康な人間関係は保てない

It is impossible to maintain healthy relationships without prayer

あなたが良い人間関係を望むなら、その前提条件はあなたと神様との良い関係です。始めに赦しが人間関係の基礎だといいましたが、この基礎は神様との関係なしに得ることは出来ないからです。祈りは神様との対話です。対話のない人間関係が不健康であるのと同様に、祈りのない生活は、人生のあらゆることに悪影響を及ぼします。

2) 祈りは人を動かす Prayers move people

「私には祈ることしか出来ませんが」などと聞くことがあります。ここには二つの誤った態度が表れています。祈るということの力を過小評価しているという誤りと、何もするつもりはないという言い訳のために神様が私たちに与えてくださった神聖な武具を用いるという誤りです。祈りの力は祈り続けて実感するしか、それを知る方法はありません。もしあなたが祈りの力を実感できないのなら、どうぞこの教会のメンバーの誰かに尋ねてください。祈りによって「人が動かされた、つまり人が変わった」経験を持った人がここには大勢います

C 赦しあう Forgiving

さて最後のポイントは「赦すということです」イエス様はここで一つの例え話をもちいて、教えてくださいました。21節と22節を読みましょう

1) 何度でも赦す Forgiving as many times as necessary

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(21-22)

当時ユダヤ教のラビは「3回までは赦してやりなさい」と教えていました。ペトロはイエス様がルカによる福音書の17章(17:4)に記されているイエス様の言葉を思い出して、こう尋ねたのです。でもイエス様がこのとき7回といわれた真意は、回数にとらわれずに何度でも赦してやりなさい、ということでした。ペテロはまだ回数にとらわれていました。そこでイエス様は「何度でも赦しなさい」ということを7の70倍と表現されたのです。カウンターを手に持って490回赦しなさいという意味ではありません。こんなことは人間の通常の忍耐では不可能なことです。だからこそ、このことの前提として絶え間ない祈り=親密な神様との交わりが必要不可欠なのです。

2) 赦すものが赦されるThose who forgive are forgiven

それではなぜそれほどまでに赦すべきなのかということを考えましょう。のこりの23節から35節までを読みます。

そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 (23-35)

1万タラントといえば当時の労働者の一日の賃金の六千万倍、一日1万円としたら六千億円になります。イエス様はこの天文学的な数字で何を教えたかったのでしょうか?それは私たち一人一人の罪の大きさです。父を父とも思わない母を母とも思わない家に平安がないように、神を神とも思わない世界の惨状をみなさんを目にしていると思います。この大きな罪を自らに負って、到底自分では償いきれない私たちに代わって清算するためにイエス様は十字架にかかられたのです。人間が神様に対して犯した罪に比べれば、人間同士がしたことは比較にならないほど小さなことです。しかも神様はそれほど大きな罪を赦してくださいました。そうであるなら私たちも互いに赦しあうべきです。「兄弟を赦さないものは自分も赦しを受けることが出来ない」(6:14-15, ヤコブ2:13)これは聖書の教える真理なのです

メッセージのポイント

人間関係は私たちにとって常に重要な関心事のひとつです。それがうまくいっていなければ、これほどストレスフルなことはありません。よい人間関係を保つための簡単なテクニックなどありません。真心であたればとも言われますが、真心でさえ通じないときもあります。イエス様が勧めてくださる人間関係の基本は「赦しあう」ことです。それは問題をうやむやにすることではありません。必要なら相手を正しい方法で諌めること、相手のために祈ること、自分の赦された罪の大きさを思い相手を赦すことです。

Our relationships to others are constantly the focus of our attention. When they do not work well, nothing is quite as stressful as that. There is no easy technique to maintain good relationships. It is often said that it only takes 'sincerity' to make them work, but that is not necessarily true. 'Forgiveness' is the basis of the kind of relationship that Jesus calls on us to have. This does not mean obscuring real problems. It means, when necessary, admonishing, praying for, and forgiving others, remembering the magnitude of our own sins which were forgiven.

話し合いのヒント

1)効果的に叱ったり、忠告したりするために、今日の聖書から学び取ったことは何ですか?

What did you learn from the Bible today about effectively rebuking or admonishing others?

2)誰かを「赦せない」と感じたことがありますか?その気持ちをどう処理しましたか?

Have you ever felt that it was 'impossible' for you to forgive someone? How did you deal with that emotion?