*2004年5月16日メッセージノート*

聖書の結婚観(Mat. 19:1-12)

まず今日のテキスト全体を読んでみましょう。

イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。(1) 大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。(2) ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。(3)イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」(4)そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(5)だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(6) すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」(7)イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。(8) 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(9)弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。(10)イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。(11)結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(12)

聖書の読み方で注意しなければならない事の一つは、実際に書かれた時代や地域・文化と読んでいる人のそれとの違いを考えに入れて読む、という事です。今私たちが聖書の書かれている戒めを表面的にその通りに守らなければいけないのではないということです。だからといって現代のコンテキストで聖書を読むということは決して、自分勝手な解釈で読むということではありません。祈りつつ聖霊に導かれつつ読むことが大切で、このことはむしろ字義通りに受け取ろうとするより難しいことかもしれません。

今日のテキストは離婚と結婚についてのイエス様の教えを記していますが、ここでは旧約時代の人々の考えがどれほど神様からかけ離れてしまっていたかのかがよくわかります。それでは 1)神様の原則はどのようなものだったのだったのか? 2)聖書の書かれた時代のイスラエルの人々はそれをどう受け止めていたのか? 3)今の時代に生きる私たちは、「神様の原則」をどう守ってゆけばよいのか?という順序でお話ししてゆきます。


A. 神様の結婚観(3-6/創26-29)

1) 神が合わせられたもの

誰でも結婚は二人の合意に基づくものだと考えますが、実はそれ以前に神様が伴侶を必要とするあなたに最善の人を与えて下さるものなのだ、ということが前提にあるということを多くの人は知りません。全知全能の神様と言われるように、神様はあなたに最も相応しい伴侶を相応しいタイミングで与えてくださいます。神様は離婚や再婚を決して認めないものではありません。ただ、結婚が大変神聖なものなので人が軽々しく扱っていけないものなのだと教えます。

2)互いに必要とする関係

人は一人では生きてゆくことはできない社会的な存在であり関係の中で生きてゆく者です。そして「夫婦こそ、−番ちいさい、しかし基本的な社会である」という創世記の教えをイエス様はここでもう一度思い起こさせて下さいます。私がホテルのチャペルで行っているセミナーで毎回言っている事なのですが、この国では永く血のつながりのない夫婦より親子の関係の方が重くみられて来ました。しかし親子の関係は夫婦という、血のつながりのない関係から始まります。

皇太子妃が精神的バランスを崩してしまわれたのは彼女が一人の人格としてではなく皇位けいしょう者を生むことを期待されている母体としてしか見られていないストレスから来ているものだという内容で皇太子が発言されて間題となっていますが、皇家ではこの傾向が一般より以上に残っているわけです。

しかし神様の教えはそのようなものではありません。「対等で、互いに必要としあう、尊敬しあう関係である」というのが神様の結婚観なのです。

B. 旧約時代の結婚観(7-8、申命記24:1)

1) 律法は神様の命令か?

ファリサイ派の人々の質問は、当時の常識とイエス様が求められるモラルとが異なっていたことを攻撃するものでした。イエス様が3-6節のように答えられると、彼らは、イエス様のより厳しい基準が彼らにとって都合の悪いものだったので、モーセの権威を借りてこう反発したのです。すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」(7)あなたはモーセの律法が間違っているというのか?そう言われてイエス様はこう答えます。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。(8)

ここでイエス様は旧約の律法が必らずしも神様の竟向を100%伝えているものではなく、それをただ守っていればよいというものではない、という亊をおっしゃっているのです。

2) 男性中心社会の結婚観

今日メッセージの最初に、「聖書は書かれた時のコンテキストを考えて読まなければいけない」とお話しました。

申命記を見ると「ただ気に入らなくなった」だけで夫は妻を離婚できるように感じられます。実際にそのように解し、教えた律法学者もいたのです。それは時代に対する、指導者の妥協だったわけです。

C. 私たちの結婚観(9-12)

1)イエス様の理解に従うとは?

クリスチャンであるなら、自分の結婚観はイエス様の結婚観と同じでありたいと願うわけですが、イエス様の結婚観の土台は「愛」です。それは互いに自分のすべてを相手に差し出す愛です。相手に見返りを求めない無償の愛です。私たちは結婚する時に互いに対してそのような愛で愛し合うと神様に誓います。とはいえ、誓えば自動的にそうできるようになるものではありません。傷つけ合ってしまったり、行き違いがあったり、理解できなかったり、そういった努力をやめてしまえば2人の距離はどんどん離れてしまいます。この努力は一生続きます。クリスチャンの個人が一生をかけて少しずつ主に似た姿に変えられてゆくのと同じように、夫婦も一生をかけて成長してゆくものなのです。


2)律法主義に陥らない

律法主義におちいる危険はこの時代のみにある訳ではありません。ユダヤ教にのみ起ることでもなく、キリスト教会も例外ではありません。律法主義とは、その人に対する愛ではなく、規則やきまりで人を裁くことです

姦淫の罪を犯した女性に対する人々とイエス様の態度には大きなコントラストがあります。イエス様は律法の精神を大切にされましたが、律法で人を裁こうとはなさいませんでした。それに対して人間は律法の心を忘れているくせに、律法的に人を裁こうとしてしまう傾向を持っているのです。

ユアチャーチはその人がシングルでもカップルでも離婚を経験した者でも、再婚した者でも、そのことを理由に裁いたり偏見を持ったりしません。もちろん誰の心にも裁きたい気持ち、人を裁くことによって自分を正当化したいという気持ちが働きます。それをイエス様の助けによって克服してゆくこともクリスチャンとしての成長の一面です。

メッセージのポイント

人は神様によって結ばれ夫婦となります。そしてイエス様は「神が合せたものを人は引き離してはいけません。」とおっしゃいました。それは旧約時代のユダヤ人社会で男性の都合で妻を出すことができるとされた習慣を批判するもので、現代に生きる私たちにとっては当然とも思えることですが、当時の状況の元では過激な発言だったようで、人々を驚かせました。しかしイエス様は当時の社会常識がどうであれ、聖書の原則を譲ろうとはなさいませんでした。聖書の結婚観夫婦観はシンプルです。結婚は神聖なものであって人が勝手な理由で軽々しく扱ってはいけないということです。

話し合いのヒント

1)なぜ律法は夫が妻を離婚することを認めているのですか?

2)イエス様は結婚をどのように考えておられたのでしょうか?