*2004年5月23日メッセージノート*

子供たちの主 Mat. 19:13-15

弟子たちはすぐ以前にも、来るべき天の国で自分たちのうちで誰が一番偉いか、という質問をして、イエス様に「心を入れ替えて子供のようにならなければ天の国に入ることは出来ない」と叱られました。

彼らはまだ事の本質が分かっていなかったので、イエス様はもう一度ここで教えなければなりませんでした。では聖書を開いて今日のテキストを読んでみましょう。

A 弟子たちとイエス様の態度の違いはどこから来るのか?(13,14)

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

1)子供の人格をどう視るかの違い

先週のメッセージでイエス様が当時の常識に関わらず女性の人格・権利を男性と同じように見られたことをお話しましたが、イエス様は子供の人格や権利についても大切にされたことが今日の箇所で分かります。

ユダヤでは子供をラビの元に連れて行き祝福してもらうという習慣がありましたから、イエス様を慕う人々はそのようにしたのでしょう。しかし弟子たちには心の余裕がありませんでした。

福音の宣教という目的のために休むまもなく働かれていたイエス様をなるべく煩わせたくなかったのでしょう。

しかし子供たちのニーズ、親たちのニーズを満たしてやりたいというイエス様の心を弟子たちは汲み取れませんでした。

この社会では能力のある者、力の強い者、声が大きい者が顧みられ、そうでない者は後回わしにされがちです。

神様の祝福という本来、小さく弱い者にこそ与えられるべき恵みの使者である弟子達の心にも、この世の優先順位が染み着いていたようです。

しかしイエス様の見方は彼らと同じではありませんでした。福音書を通して読んでみると、イエス様は今日のどんな社会運動家よりも社会的弱者の側に立っておられたことが分かります。

それは当時においては、かなり過激な考え方で弟子たちでさえ、なかなかついてゆけなかったようです。それが2000年たってやっと少しイエス様の考えに社会も近づいてきたわけです。

2)神の国についての価値観の違い

イエス様は子供を大切にしなさいというばかりか、子供のようにならなければ天の国に入ることはできないとさえ言われました。

一方で弟子たちは最後の晩餐の時まで「天国では誰が一番偉いものとなれるんだろう?イエス様王座の右左に座れるのは誰だろうか」といったことを考え続けていました。(マタイ18:1−5)を開いてみましょう

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:1−5)

イエス様は、神の国に属する者の資質として、よく子供のようにといわれました。それは自分を高い地位にある者、強い者、持っている者と見るのではなく、実は持っていない者、弱い者であることを自覚していることが大切だということなのです。

よく言われるように子供は罪がないとか、無垢だというのはちょっと違うのです。人は人性の途中で罪びととなるのではなく、みな等しく罪人、神様から離れているものとして生まれてくるというのが聖書の教えるところです。

子供に「嘘をつきなさい、自分の意見が通らなければけんかをしなさい」と教える親はいません。それでも子供たちは、私たち自身がもてあましている利己心や虚栄心をちゃんと持っているので、嘘をつき、争い、人を傷つけることもできます。

自分の力で人生を切り開いてきたと感じている人ほど、神様の恵みと、導きによって今の自分が支えられているということを受け入れることが難しいものです。

日本人の男性などは典型的にそのように考える人が多いようです。ところが一方でこの国では中高年の男性の自殺やうつ病が大変増えているということは、どう考えたら良いのでしょうか?

自分は弱い、小さいものだと考えることは、実は、本当に強い力=神の力によって生きるということの出発点なのです。

キリスト教がヨーロッパに広めた宣教の中心となった使徒パウロは、こんなことを言っています。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:9−10)

神の国に属するものは自分の弱さをわきまえているからこそ、本当の強さを身につけているのです。


B 子供を祝福する教会(15)

そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。(15)

1)イエス様の視線で子供たちを見る

私たちも弟子たちと同じように、このおとな中心・強者中心の社会の中で、その風潮に流されやすい者であることを心しておかなければなりません。

しかし、それはまた「子供中心」ということでもありません。キリスト中心と言うべきでしょう。

そうでないと誰もが自分中心になってしまうからです。私が子供の頃、この国の日本海側は裏日本と呼ばれていました。裏というという言葉はネガティブな意味で使われますから、同じ日本でも日本海側はセカンドクラスだと見下した考えがそこにはあったのです。失礼な話です。でもそんな失礼な言い方をしなくなったのはそう昔のことではありません。

おとなも子供も強者も弱者も男も女も「神の前に」等しく尊重されるべき存在であって、どちらが中心、どちらが周辺ということはないのです。もしそのような見方をするなら、そこに差別や偏見が起こってくるのです。

2)教会の子供たちという考え方

教会は神の家族です。教会に集っている子供たちの特権は自分の親以外の大人とつきあうことができるということです。私の子供たちも教会で育ち人々の良い感化を受けて成長しました。しかしそこには境界の大人たちに課せられた大きな責任があるのです。

私たちを見て子供たちは霊的に成長するのです。子供たちは教会で人を見る目もできたので、皆さん気をつけてください。

もちろん私たちは完全ではありません。だからこそ組み合わされているのです。ここで子供たちが大切に育てられるということはどういうことか、子供たちのためにベストが尽くされているか真剣に考えられなければなりません。子供の教会の先生だけの問題ではないのです。

今日最後に取り上げたいことは「大切にするとは甘やかすことではない」ということに関連して、「叱り上手、しかられ上手になる」ということです。皆さんは子供の頃、他人に叱られた経験がありますか?日本では過去5・60年の間に、他人の子を叱るという習慣がなくなりました。特に最近では禁止されている場所で喫煙を注意すると逆に暴力をふるわれることもよくあって、それが中学生であっても、体格がいいですから、人を叱るのも命がけのようななさけない状態です。子供たちは叱られることに慣れていませんし、叱られなかった子供がおとなになると、怒ることはあっても叱るということが分からず、その子供がさらに混乱するという悪循環におちいっているのがこの国です。しかられるということが上手ではないといえるかもしれません。「叱る」ことは愛に基づく教育です。