2004/5/30 メッセージノート
永遠の命:マスターカードは使えないプライスレス
マタイによる福音書19:19-30 (マルコ10:17-30、ルカ18:18-30)
A 誤解していませんか?「永遠の命」について
教会で使われる言葉は日常生活の中ではなじみのない言葉であったり、普段使うのとは違う意味で使われたりするので、どうもついていけないなと感じる人は皆さんの周りにもたくさんいると思います。ですから私たちがイエス様を誰かに紹介する時も、できるだけ普段その人が使っている言葉で表現しなければ分かってもらえません。でも自分がよく分かっていなければ易しく言い換えることもできませんね。今日取り上げる「永遠の命」という言葉はいかがですか?分かっているような、分かっていないようなではありませんか?誰かに易しい言葉で教えてあげられる自信はありますか?聖書辞典を開かなくても聖書の中でイエス様ご自身が答えておられます。今日の聖書の箇所はマタイによる福音書の19章ですが。その前にヨハネによる福音書の17章2-3節のイエス様の答えから読んで見ましょう。
1)永遠の命とは何か?(ヨハネ17:2-3)
あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
「永遠」というと私たちは、限りなく続く時間と受け取り、「ずーと続く命、死なないこと?それはいいね、でもありえない」と思ってしまいます。でもここで「永遠の命」とはイエス・キリストを通して神様としっかり繋がっていることだとイエス様はおっしゃるのです。永遠の存在は神様だけです。それ以外のどのようなものも、人も他の生物も、文化も、国家も、天体でさえ、滅びたり、変化したりするのです。時間的にも、空間的にも、能力的にも有限な存在でしかありません。
2)永遠の命は誰が持っているのか?(16-17a)
さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。(16-17a)
イエス様の前に現れた青年は、現代に生きる私たちとは違い、この言葉の意味はよく分かっていました。当時のユダヤ人にとっては「永遠の命を得る」ということは「永遠である神様と共に歩む」ことだというのは自明のことでした。しかし「永遠である神様と共に歩む」ということが人間にとって一番幸せで、大切だということを知ってはいましたが、それを誰に求めるかという点では、彼に限らず多くの人々が誤解していました。
それはもちろん永遠の存在である神様に求めるべきものです。しかし当時の人々は、直接神様に聞こうとするといった態度ではなく、教えてくれる良い先生を捜し求めていたのです。しかしそれらの先生を信頼したところで、自分自身のこととして神様に繋がらなければ意味がありません。イエス様は、この青年がイエス様を新進気鋭の律法学者の一人と見てこのような質問をしたので、当時の人々に忘れられていた一番大切なこと、人の教えではなく、神様の言葉に聞き従うことをするように警告したのです。しかしイエス様は答えを続けられました。私から、学者から聞くようにではなく、神の言葉として聞きなさいということです。
3)どうしたら永遠の命を得ることができるのか?(17b-21)
もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(17b-21)
この青年は今までの質問者のようにイエス様を陥れるために意地悪な質問をしようとしたのではありません。真剣に、どうしたらよりよく生きられるか?後悔のない一生を送れるだろうか?神様にも自分にとっても隣人にとっても好ましい自分の生き方があるのだろうか?と聞きたかったのです。そこでイエス様は十戒(出エジプト20:12-16)とレビ記(19:18)を引用して答えました。確かにこの青年は十戒については表面的には誰からも責められる事のない生活をしていたのです。しかし彼の問題は「隣人を自分のように愛しなさい」ここにあったのです。22節から24節までを読みましょう。
B ただ恵みによって得られる「永遠の命」
1)捨てるべきものが多いほど困難 (22-24)
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(22-24)
彼はお金持ちでしたが、そのお金を困っている隣人のために用いることなんて耐えられないと思ったのです。あるいは自分の満足のためにある程度の施しはしていたのかもしれません。自分では結構いい線をいっているな、と思っていたのです。ところがイエス様の言葉で、実は自分は神様に心から従っていたわけではないということを発見して愕然としたのです。しかし完全になれないのは彼だけではありません。私たちも、彼ほど財産があるわけではありませんが、今すぐ持ち物をみんな売り払って私に従ってきなさいといわれたら躊躇してしまうのではないでしょうか?25節、26節を読みます
2)人にはできないが神様にはできる(25-26)
弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。(25-26)
神様は私たちの心を新しくすることのできる方です。あなたの大切なもの、これは誰にもあげられないものを心の中で数えてみてください。たくさんありすぎて、自分はクリスチャンといえるのだろうかと嘆かないでください。
あなたがどんなにこれは自分のものといって頑張ったところで、全てのものはやがて無くなってしまうのです。形あるものはもちろんのこと、親子・兄弟・伴侶でさえ、この世界にいる限りいつか失うものなのです。本当はいつまでも変わることなく自分のものであり続けるものなどは何もなく、神様が期間限定で貸し与えてくださっているものなのです。
ですからそれが物であればどう有効に使うのか、人であれば良い交わりを保つのかが大切なのであって、何を持っているか、何を失うかが問題ではないのです。
今年娘が卒業して私たちは二人の子供の親として教育の機会を与える責任を何とか果たせました。もう学校から授業料とか、寮で規則を破って火を使った罰金の請求書とかを受け取らなくてもいいかと思うと、ほっとしているところです。私たちが聖書から学んだ子育ての極意は「子供は神様から育てることを任された“神の子”であって私たちの所有するものではない」ということです。子供は全面的に保護してやらなければならない時期、経済的・精神的に支えとなってやるべき時期、ほとんど独立していても時には助けが必要な時期を経て、やがて創世記にあるように「父母から離れて」独立してゆくのです。子供の人生はあなたの人生の一部ではないのです。教育の理想は自分の思い通りの人に育てることではなく、神様の心にかなった人になることを助けることです。
「永遠の命」とは別の表現をするなら、神様からの良いものを与え続けられる人生とも言えるでしょう。自分にはこれが必要、なんとしても手に入れたい、手に入れたら絶対手放したくないと考えていると、神様がもっと良いもの、本当に必要なものを与えたいと思っても、既に手の中はいっぱいで受け取ることはできないのです。だから持っている能力や財産や時間を有効に隣人の必要を満たすために使うことが祝福となるのです。
ここまでお話してもまだ、神様が喜ばれるといっても、そんなに気前よく人に与えていたら、やっぱり自分の分で困ってしまうのではないかと心配している方に素晴らしい聖書の一節を紹介したいと思います
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
この世界に神様の愛が満たされるように、神様の正しさが行われるように、あなたの持っているものを惜しまず使いなさい。そうすればあなたに必要なものはあなたが心配しなくても、神様がちゃんと供給してくださるという神様の約束です。
3)信じ、従ったものにはどのような報酬が用意されているのか?(27-30)
それでは残りの27−30節を読んでみましょう。
すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(27-30)
ペテロさんは12人の中でも中心的な弟子ですが、結構いわなくてもいいことを口にしてしまう人のようです。イエス様が丁寧に、執着しないこと、与えることの恵みを話してくださったのに対する反応がこれです。「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 イエス様はそれでも彼にちゃんと答えてやりました。それはもちろん文字通り家を100件子供も兄弟も100倍、妻、夫を100人というわけではありません。それほどの大きな満足を与えられるということです。そして何よりも素晴らしいことはそのような生き方が、あなたを神様と常にしっかりと結び合わせていてくれることです。
最後の「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」ということのついてはイエス様が次の章で興味深いたとえ話で教えてくださっているので来週お話します。
メッセージのポイント
誰もが良い人間関係は目に見えない財産だと知っていますが、神様との関係がそれ以上に大切な財産であることに気付いている人は多くありません。目に見える財産を持っていればいるほど、人はそれに執着して神様との関係を持つことができません。神様との良い関係を保つ秘訣は「手に入れる喜び」ではなく「与える喜び」を知ることです。人間の価値はどれほど多く持っているかではなく、多少に関わらず持っているもの、与えられているものをどのように用いるかによって決まるのです。
話し合いのヒント
1) 「永遠の命」とは何かよく理解できましたか?「永遠の命」とは何ですか?
2) なぜ金持ちが天の国に入るのは難しいのですか?