2004/6/20 メッセージノート

願い求めることについての6W2H 

マタイによる福音書20:29-34 (平行記事マルコ10:46-52 ルカ18:35-43)

A. はじめに

1) 平行記事をどう読むか

みなさんはなぜ福音書が4つもあるのか疑問に思ったことはありませんか。新約聖書の最初の3巻、マタイ、マルコ、ルカは共観福音書と呼ばれています。福音書はこれらにヨハネを加えて4巻あるのですが、皆さんもお気付きのように、最初の3巻には共通の記述がたくさんあるためです。そして同じ出来事を記している他の巻のテキストを平行記事と呼んでいます。ところが厄介なのは明らかに同じ出来事を記しているのに違いがあることです。聖書は「神様の言葉で一字一句誤りが無いといわれているのに、どう考えたら良いのだろうか?」大体著者はイエス様ご自身ではなく、マルコもルカも直接の弟子でもありません。イエス様の十字架の後で書かれたもので、弟子たちに伝えられていた、イエス様が地上で歩まれていた頃の言動をまとめたものです。イエス様の全ての行動や言葉が網羅されているのではなく、記者の選択があるわけです。ここでの事実としては癒された盲人は二人いたのでしょう、しかしマルコにとっては名前を知っているバルテマイという人だけを取り上げたほうが良いと判断したのでしょうし、ルカはここでのポイントを分かりやすくするために周辺的なことはできるだけシンプルにしたほうが良いと思ったのでしょう。マタイは元収税人ですから、人数ははずせなかったのでしょう。もう一つマタイとマルコはこの出来事がエリコの町を出る時の出来事だとしているのにルカは入る時としています。このことが同じ出来事を記しているとすればどちらかが事実とは反していることになります。しかし私たちが福音書を読む目的は、イエス様の正確な足取りをたどるためではありません。そうではなく神様がその箇所から語りかけてくださることを聞くためです。むしろ共観福音書は共通して取り上げた記事を別の視点から記し私たちがより深い理解にいたることを手助けしてくれるのです。

2)求めるのが悪いのではなく、求め方の問題

イエス様は弟子たちの見当はずれな願いを何度か叱るー方で逆に弟子たちが願い事のためにイエス様に近づこうとする人々をいさめるのを見て返って彼らを叱っておられます。ここで私たちは、主が私たちの願いに応えたいと思っておられることを確認することができます。同時に内容や方法によっては相応しくない願いがあることも確かなようです。つまり、主に願い求めるということについて二つの極端を避けなければならないということです。一つは「神様が全知全能であるなら私たちの方からは"御心がなりますように"と願う以外には何も祈るべきではない」という間違いであり、もう一方は何でも聞き入れられるまで求めるべきで、聞かれないのは祈りが足りないからだ」という考え方です。どちらも聖書の一部分だけをコンテキストを無視して取り上げた考えです。そこで聖書全体が願い求めることについてどのように教えているかを見てゆきたいと思います。今日の箇所は主が盲目の物乞いを哀れんで癒されたということを通して、その事実以上のことを私たちに教えてくれます。イエス様はこの癒しを通して私たちに「願い求める」ことの大切さを教えてくれています

それではまず全体を通して読んでみましょう。

一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。(29-30)

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。(Mark 10:46-47)

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。(Luke 18:35-38)

群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。(31)

多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。(Mark 10:48)

先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。(Luke 18:39)

イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。(32-33)

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。(Mark 10:49-51)

イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」 盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。(Luke 18:40-41)

イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。(34)

そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(Mark. 10:52)

そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。(Luke 18:42-43)

B.願い求めることについての6W2H

1) Who 誰が

彼らは目が見えず物乞いをするしか生きてゆく道がない人たちでした。見えないこと、乏しいこと,それは切実な問題です。

今、あなたは切実な願いを持っていますか?それならこの事は他人事ではありません。クリスチャンでも、神様に本気で求めていいのだろうか?自信がない人が多いのです。遠く離れた天の彼方におられる神様が、ちっぽけな何億もいる人間の一人である私の願いに耳を傾けて下さるということをリアルに感じることができないのです。あるいは叫んで求めても与えられなかったらどうしようという恐れが本気で求めることに躊躇してしまう人もいます。求める前から、あきらめてはいけません。神様は決してあなたの声を聞き逃すことはありません。

2) Whom 誰に

彼らは「主よダビデの子よ」と呼びかけました。救い主はダビデの子孫から、と言い伝えられてきましたから、彼らはイエス様に大変期待したのです。

私たちは心の願いを誰に求めるかを知っているはずですが、時として別の人々に求めてしまうことがあります。けれども私たちは皆、不完全なものですから人に求めても満足を得ることが出来ずに、返ってその人を責めてしまったりしてしまいます。また私たちの周りにはそれを誰に求めたらよいか知らない人が沢山いるのです。願いを聞いて下さる方、その人自身よりよい答えを持っおられる方を知らずに絶望している人に私たちの誠実な友イエス様を紹介できることは私たちの大きな特権です。イザヤ書40:27-31は私たちのイエス様に対する期待が間違っていないことを教えてくれています。

ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

3) What 何を(ヨハネ15:1-17)

私たちはどんな事でも願い求めてよいのです。体の癒し、人間関係の回復、経済的な逼迫、あるいは自分のことではなく他の人の問題でさえ解決してくださいと願い求めることができるのです。

たった一つの条件は、それが神様の心にかなっているかということです。神様の心にかなっているというと「自分の望みとは関係なしに」と思いがちですが、実は神様の心にかなっていることこそ、自分にとっても本当の益となるのです。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。(ヨハネ15:7-8)

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:16-17)

4) When いつ

願い求めることに良いタイミングというものがあるのでしようか?

私達は人に物事を頼むときに、その人の機嫌がよさそうなときに、などとタイミングを計ります。でも願いが切実なときには相手の都合もかまってはいられません。盲人たちの願いは弟子たちにとっては教えの邪魔になる最悪のタイミングでしたが、イエス様は聞いてくださいました。彼らは私たちのお手本です。いつでも願い求めることができるのです。

5) Where どこで

神様に願うのは、どこか特別の所に行ってしなければいけないということではありません。イエス様はどこが特別な聖地で、できればそこに言って礼拝したり祈ったりしなさいとは、エルサレムにある教会で、あるいはローマで祈れば聞かれ、ユアチャーチではだめということは無いのです。もちろん教会の中である必要さえありませんし、祭司や神父や牧師に聞いてもらう必要もありません。神様はあなたの真のお父さんなのですから、いつでもどこでも願い求めることができるのです。

6) Whyなぜ(どんな目的で)

普通、私たちが誰かに何かを求めるのは自分の願いを満たすためです。しかし私たちが神様に願うのは、自分に神様の意志が成就するためです。それは3)でお話したように、私たち自身より神様のほうが良い答えをお持ちであることを知っているからです。でもそれは自分の感情や願いを神様に隠さなければいけないということではありません。イエス様でさえ「できれば十字架の苦しみを取り除けて下さい」と祈られました。

少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)

7) Howどうやって(エフェソ6:18、フィリピ4:6-7)

それは祈りによってです。私たちの祈りを導いてくださるのは神の霊・聖霊です。習慣的に、口先だけでではなく、真剣に根気強く祈るのです。

どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソ6:18)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:6-7)

8) How Muchいくらで(使徒言行録8:17-24)

神様はあなたの願いをかなえるために料金を要求なさる方ではありません。神様が求めておられるのは、ただあなたの子の親に対するような信頼だけなのです。何か願いをかなえるために対価を要求するのは本当の神様ではありません。


メッセージのポイント

神様はあなたの心の願いをよくご存知です。そしてその願いに応えて下さる方です。神様に願い求めるということについて、両極端の二つの大きな誤解があります。一つは「神様が全知全能であるなら私たちの方からは“御心がなりますように”と願う以外には何も祈るべきではない」という間違いであり、もう一方は何でも聞き入れられるまで求めるべきで、聞かれないのは祈りが足りないからだ」という考え方です。どちらも聖書の一部分だけをコンテキストを無視して取り上げた考えです。聖書が教えてくれているのは、私たちが子供のように願い求めても良いということ、そして神様は私たちにとってもっとも相応しい形で、答えてくださるということです。あなたの願いを熱心に主に求めましょう

話し合いのヒント

1) 「祈りは必ず聞かますか」という問いにあなたはどう答えますか?

2) あなたの今一番切実な願いは何ですか?