2004/6/27 メッセージノート

あなたの心に王をお迎えしよう 
(マタイ21:1-11、ゼカリヤ9:9-10)

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(1-5)

弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(6-7)

大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(8-9)

イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。(10-11)

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ9:9)

続けているマタイによる福音書からのメッセージシリーズは今日の箇所から、イエス様の地上での働きの最後の1週間、つまり受難週の出来事の記述が始まります。今日取り上げるその最初の日は日曜日で、今では伝統的に棕櫚の日曜日と呼ばれています。棕櫚といっても、日本の棕櫚ではなくナツメヤシ、フィニックスとも呼ばれる Date Palmのことです。群集がこの葉を打ち振ってイエス様をお迎えしたことからそう呼ばれるようになったのです。棕櫚は王や勝利のシンボルで、かれらは新しい王としてイエス様を迎えのです。そして捉えられて十字架にかけられてしまったので人々の夢は砕かれてしまったようでした。しかしイエス様にとっては、十字架は「本当に価値のある救い」の完成のための最後のプロセスだったのです。

A.イエス・キリストはどのようなお方か?

1)白馬ではなくロバに乗ってこられる方

聖書には多くの動物が登場します。一番多く出てくるのは羊です。今日取り上げる動物ロバは登場回数なら、羊・牛に続いて第3位、そして馬、らくだ、獅子と続きます。ここで預言者の言葉としてイエス様が語られたのは、旧約聖書のゼカリヤ書の引用です。イエス様はその預言が自分を通して成就することを知らせるために、子ロバを調達しようとなさいました。当時の人々は王がロバの子に乗ってやってくるというゼカリヤの預言をどう考えていたのでしょうか?それまでこの地域を支配する野望を持った人々は多く表れましたが、これらの他国からの侵略者たちにとっては、ろばは支配者の乗り物とはとても考えられなかったでしょう。イスラエルの人々にとっては羊や牛と並んで身近にいる親しみのある動物で、よく使われていました。一方馬は、イスラエルの牧畜文化にはあまり必要もなく、戦争のための、あるいは軍隊のための動物という印象が強かったのです。神様はイスラエルに戦力となる馬を多く集めることを戒められました。

イエス様が子ロバに乗ってこられたということは、彼が武力を背景に王になる方ではないということです。目に見える権力を求めず、むしろ人々が今まで背いていた神様への信頼を再び取り戻すために、心からの神様への服従を求めたのです。それも乱暴に脅かしたり洗脳して人々の心を開こうとする方ではありません。むしろ辛抱強く、心の扉を遠慮がちにノックされる方なので、聞こうとしない人はそれを無視することができてしまうのです。


2)子ロバに乗ってこられる方

マタイだけを見るとイエス様が子ロバに乗ったのか、雌ロバに乗ったのかはっきりしませんが。ルカや、マルコを見るとそれが子ロバのほうであったことが良く分かります。よたよたとそれでも頑張ってイエス様を乗せている子ロバ、これほど王に相応しくない乗り物はありません。馬よりも遅く、牛よりも力がありません。しかもこの子ロバはまだ人を乗せて歩いたことも無かったのです。ここには二つの大きな意味があります。一つはイエス様が旧約聖書の預言を成就するために来られたということであり、もう一つは彼が柔和な方であるということです。柔和という形容詞は人気のない言葉です。それは昔でも変わりありませんでした。イエス様はこの人気のない形容詞にこそ人として大切なあり方を教えられたのです。でも自信がなければ「柔和」ではいられません。自分に自信がない人ほど立派な服を着たり、高級な車に乗ったりする傾向があるといいます。人に威圧感を与えたり、注目してもらいたく思うのです。柔和というのは主張しないことでも、行動しないことでもありません。自分の主張のために人を恐れさせたり、攻撃したりせずに思いを伝え続ける人のことです

B.私たちはイエス様をどうお迎えしたら良いのか?

1)イエス様の本当の使命を知って歓迎しよう

イエス様をエルサレムに迎えた人々は、イエス様の本当の使命を誤解していたので、捉えられ、十字架にかけられてしまった時には大変失望してしまいました。イエス様をよく知っていた弟子たちでさえ、イエス様が葬られると人々を恐れて、鍵のかけられた部屋に閉じこもっていたのです。

もしあなた彼らと同じようにイエス様に誤った期待をしているなら失望することになるだけではなく、イエス様があなたに与えようとしておられる、すばらしい贈り物を断ることになるのです 皆さんはイエス様に何を期待して、自分の主としてイエス様を心にお迎えしたのですか?繁栄をもたらしてくれると思ったからですか?心の平安を与えてくださると思ったからですか?それとも病を癒してくださると思ったからですか?これらのことはイエス様に近づくきっかけとしては当然のことです。イエス様も「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17) とおっしゃっています。ですから問題の解決をイエス様に求めることは決して間違いではありません。しかしイエス様は心と体を癒し健康にするための医者としてだけ来て下さったのではありません。健康を与え、成長させ、人生の意味と目的、そしてそのためになすべきことを与えてくださる方です。弟子たちはやがて復活されたイエス様に出会い絶望は消し飛んでしまいました。その後イエス様は肉眼では見えなくなってしまいましたが、もう彼らは失望することはありませんでした。たとえ目には見えなくてもイエス様の霊・聖霊がいつも導いていてくださることを知っていましたし、はっきりした人生の目的を与えられたからです。イエス様はあなたにも同じことをしてくださいます。私達は皆違った形ではあっても同じ一つの人生の意味と目的を持っているのです。それは私たちが神様からいただいた愛、誰かを通しいただいた神様の愛を、今度は自分を通して誰かに与えることです。この事を通して私達は、この世界が神様の愛と義で満たされるまで働くのです

2)私たちも子ロバになろう

もう20年以上前に亡くなられた、榎本牧師は「ちいろば牧師」と呼ばれていました。やはり亡くなられた三浦綾子さんがその伝記を出版していますから、今でも彼の生涯をたどることができます。彼は自分がどんなに小さく頼りない存在であっても、あのイエス様をお乗せした子ろばのように、どこにでもイエス様をお乗せしてゆこうという気持ちで伝道の生涯を送られた方です。

 弱いこと、小さいことは不利だという考え方は、この世の常識ですが、聖書の常識ではありません。私たちは聖書のいたるところに、神様の働きを担い、世界を変えてきたのは、小さい者、幼い者、身分の低いもの、権力を持たない者だったことが記されています。サムエル・ダビデ・群集の飢えを癒すために自分のお弁当を差し出した少年。数えればきりがありません

一人一人のできることはそう多くありません。与えられている能力にも、時間にも限りがあります。信仰のスーパースターのように見える人でも神様の目から見れば、大きな違いではないのです。それなのに私たちは、自分が子ロバのような存在であることを喜べず。人をうらやんでしまうのです。でも人のことを考えている暇は私たちにはないのです。大きな使命を持ったイエス様があなたを用いたい呼びかけておられるのですから、重い荷ではあっても持つことが出来ます。イエス様はどんなに重くても決して耐えられない荷をあなたの背に負わせる方ではありません。だから私達は安心して一所懸命になれるのです。


メッセージのポイント

イエス様は「救い」を完成するために、つまり十字架で死ぬために都にやってこられました。「救い主・メシアが来た!」と熱狂的に歓迎されますが、イエス様は人々が期待しているような新しい権力者、王として来られたのではありませんでした。イスラエルという地域や、時代にとどまらず、あらゆる時代のあらゆる地域に住む全ての人があがめるべき王の王、主の主としてこられたのです。人々は自分の生活が向上する政治的革命を期待していました。当時の権力者・指導者たちはもちろんこのことでイエス様を警戒していたのです。しかし民衆であれ、指導者たちであれ誰もイエス様に「心に革命をもたらしてほしい、心を変えていただきたい」とは思わなかったのです。けれども、人の心が変えられなければその人の人生は変わりません。人々の心が変わらなければ家庭も、国も、世界も変わらないのです。

話し合いのヒント

1) なぜイエス様はロバの子に乗って都に入られたのですか?

2) 人々は都に入られるイエス様を大歓迎していますが、彼にどんなことを期待していたのですか?