2004/7/4 メッセージ 

あなたが偽善者とならないために  

マタイによる福音書21:12-17、エレミヤ7:1-11

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

私達はこれほどまでに荒々しいイエス様を、聖書のほかの箇所で見ることはできません。ちょっと違和感を覚える人がいるかもしれません。しかしここで行われていたことは口で警告しておくだけで放置することの出来ない深刻な悪だったのです。これは親たちが少し「体罰アレルギー」になっていることと似ています。児童の虐待と体罰とはまったく違うものです。しかし虐待する者が「体罰だった」とか「しつけの一環だった」などと言ったりするので、何が何でも口で優しく説得しなければいけないという雰囲気があります。歩き始めたばかりの子供が何度も高いがけに近づくとき、そのたびになぜがけに近づいてはいけないかということを、口で何回でも説得するのでしょうか?もしかしたらこの子は何回目かのトライであなたが目を離している隙にダイブしてしまうかもしれません。それはあなたの言葉による説得では危険を実感することが出来ないからです。そこで取り返しのつかないことになる前に、できるだけ怖い顔を作っておしりに覚えさせるわけです。それは虐待のように自分が冷静ではなくなってつい手を上げることとはまったく違います。体罰は子供の心を傷つけると心配する人もいますが、それは誤解です。それが子供を危険から、悪から守ろうという愛情を動機としてなされるなら、そんなことにはなりません。子供たちは親が想像する以上に、親の心の中を見通します。子供が傷つくのは「愛されていない」という感覚であって表面的な態度でも、言葉でも、体罰でもないのです。

 このとき神殿では、イエス様がこのように行動しなければならないほどの悪がなされていたのです。そしてそれほどの悪とは「神様の名を用いてなされる偽善」です。偽善とは良い事をしているかのように振る舞いながら、実のところ、本当の目的は自分のために不正な利益を得ることです。たとえば人々の尊い命を救うためにといいながら、実は自分のキャリアアップのためにしなくても良い手術を行う医師。この国のために命を賭けると言いながら、実は自分の選挙区にいりもしない高速道路を計画して自分の後援者を富ませる政治家、どんな所にも偽善者はいますが、最も罪深いのは「神様のため」として行われる偽善です。

A.イエス様はなぜこれほどまでに荒々しく振舞われたのでしょうか?

1)イエス様以外には止めることの出来ない恐ろしい偽善が行われていた

この国のクリスチャンは自分がイエス様を信じていることを周りの人に知られることをためらっている人がとても多いことを知っていますか?いろいろ理由がありますが、ひとつの大きな理由は「信仰」とか「宗教」にマイナスのイメージが強いので「変な人」と思われたくないということです。宗教の名の下で犯罪が行われたり、宗教的カルト集団に心をコントロールされてしまったりといったことが良く話題に上るので、「どんな宗教であれ近づかないほうがいい」という雰囲気です。それは自称「宗教家」の偽善がもたらしたことなのです。しかしこのような傾向はイエス様の時代からあったのです。

 当時神殿では、お金や供え物を捧げるのに、たとえばイスラエルのお金でなければならない、特別な検査をした傷のない動物でなければいけないといった細かい規定があって、個人でそれをするには大変な手間がかかったので、この庭で店を構えていた両替屋や売店で神様への供え物を売ったり、ローマのお金から両替したりするしかなかったのです。両替するには10〜16%の手数料がかかり、鳩などの供え物の動物も市価よりもはるかに高価で、しかもその利益は神様に捧げられるのではなく大祭司など宗教的特権階級の私服を肥やすものでしかありませんでした。イエス様はこのような霊的な状態に危機感を覚えたのです。

イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。(マルコ7:6、イザヤ29:13-14)

神様のこのような状態に対する警告は、旧約聖書の時代にも預言者を通してなされてきましたが、人々の心の状態は悪くなるばかりでした。

2)偽善者たちが神様から離れているだけでなく、人を神様から引き離していた

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。(マタイ23:1-13)

「神様の名を用いてなされる偽善」の恐ろしさは、偽善者だけが神様から離れてしまうのではなく多くの人を道連れにしてしまうことです。イスラエルの民にとってはこんな指導者の導きに素直に従うことが、神様に従う道だと教えられてきていたのです。誰も本当に神様につながる道を教えてくれないのですから、いつまでも民には平安はありません。指導者たちに対する不満は、神様に対する失望ともなっているのです。しかし、だからといって希望を託すことのできるような人は永く彼らの前に現れることはありませんでした。ですからイエス様の登場は人々に熱狂的に迎えられたのです。一方で偽善者たちにとっては、自分たちが偽善者である事を明らかにしてしまう、イエス様の存在は絶対認められなかったのです。

 もし私たちが(つまり教会が)イエス様のお名前によって偽善を働くなら、イエス様の働きといいながら自分の利益のために生きているなら、イエス様はどんなに悲しまれるでしょう?偽善は始めは誰も気がつかないほど小さく人々の心の中に始まりますがやがてそれはキリストの体全体に広がり、私たちの心を腐らせてしまいます。「あんな人が牧師なら・クリスチャンなら、私は絶対キリスト教なんて信じない」と人に思わせてしまうようにさえなってしまい、伝道するどころか、かえって人を神様から遠ざける働き人になってしまうのです。

3)誰でも簡単に偽善者になれる

偽善者なんて言葉は普段全然使わないし、自分には全然関係ないと思っている人も多いかもしれませんが、実は私たち誰でもが、簡単に偽善者になることができるのです。それは私たちの体に染み付いた罪の性質によるものです。しかも厄介なことにそれは知らないうちに忍び寄ってくるのです。誰でも自分が神様を利用する偽善者にならないように気をつけなければなりません。

B.教会が強盗の巣とならないために

主からエレミヤに臨んだ言葉。 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ7:1-11)

1)教会はどのような所か?

教会は神の家族です。神様の愛が満ちている所であるはずです。慰め、励まし、憐れみ、同情が歌の中に、神様の言の説教の中に、祈りの中に、会話の中に現れるところです。本当にこの人は私のためを思ってそう言ってくれるのだろうか?そうしてくれるのだろうか?と疑う必要のないところ、のはずです。何も知らなくても、何も出来なくても、自分はここには必要ないと思わずにいられるところであるはずです。ときどきTVで取り上げられたりする子供が1ダースくらいいる大家族を想像してみてください。生まれたばかりの子供は何も出来ません。皆が世話をしてくれます。幼稚園くらいになると、ちょっとしたお手伝いができるようになります。小学生になれば立派な働き手です。高校生になればアルバイトで家計を助けるかもしれません。でも中には病気で実質的な働きはまったくできない子供もいるかもしれません。でも両親を始め誰も彼を足手まといだとは思いません。その子がこの家族の中にいる事自体を喜んでいるのであって、労働力として期待されているのではないからです。誰も自分のために誰かを犠牲にしようとは思いません。むしろ自分を家族のために役立てようと思います。こんな大家族それが教会です。

 この大家族は拡大してゆきます。すべての人が神様の子どもであって、クリスチャンかそうでないかの違いは、自覚しているかいないかの違いでしかありません。私たちが人にイエス様を伝えるのは、その人がもともとその一員である、この家族の中に帰ってきて、愛されていることに気付き、愛し合う喜びを見出してもらうためです。


2)あなたは自分の利益のためにここにいるのではない

教会では誰も自分のために誰かを利用しようとはしません。そうではなく自分はこの家族のかけがえのない一部として与えられた勤めを喜んで果たすのです。赤ちゃんは世話をしてもらうばかりで自分で何かができるとは思ってもいませんが、人々を和ませ、家族に生きてゆく勇気を与えることが出来ます。病床にいて瞬きさえ自分の力で出来ないクリスチャンだって、神様の家族の一員です。皆の沢山の助けが必要です。でもこの人にも「祈る」というとても重要な働きを担うことができるのです。

 よく私はみなさんに、牧師やリーダーたちのために祈ってください、とお願いします。それは牧師やリーダーたちが偽善者になりやすい立場にいるからです。サタンは当然、牧師・リーダーを誘惑し教会が「強盗の巣」になる事を願っています。

3)ここにあなたのなすべきことがある (ローマの信徒への手紙12章)

誰でも教会に始めに来たときには自分のことで手一杯でした。それを解決するためにやってきたのですから、それでいいのです。でも神様はあなたの問題を解決してくださり。あなたは喜んでイエス様に従ったわけです。罪を赦され、問題から解放され、成長してゆけば、どのように神様に仕えてゆくのか?ということが見えてきます。それはあなたのライフワークです。最後にローマの信徒への手紙12章を開いてみましょう。ここには目指すべき教会の姿が明らかにされています。


メッセージのポイント

神様を信じている、愛しているといいながら、いつの間にか自分の都合に合わせて神様を利用している。これほど恐ろしいことはありませんが、無警戒でいるなら私達は簡単にそのような状態に陥ってしまいます。表面的には礼拝し、祈り、神様を敬っているように見せながら、心は「主に従っている」のではなく「自分を主にしている」、これは最悪の偽善です。偽善の恐ろしさは、自分が神様から遠ざかるだけでなく、あなたの偽善にふれる人も神様から遠ざかりたいと思わせてしまうからです。神様はあなたを偽善から守るために、「正しい礼拝と祈りと交わり」が大切だということを教えてくださいます。

話し合いのヒント

1)今日紹介されたイエス様の行動をあなたはどう感じましたか?

2)どうしたら偽善者となってしまうことから自分を守ることが出来ますか?