2004/7/25 メッセージ 

もう一度やり直せる 永原真理 マタイによる福音書21:28-32

まず始めに今日の聖書の全体を読んでみましょう

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。(28) 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。(29) 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。(30) この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。(31) なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(32)

イエス様は人間と神様との関係をよく親子の関係にたとえて教えられました。父に対する兄の態度と弟の態度は、神様に対する当時のユダヤの宗教指導者たちの態度と、当時の社会の中で罪深い者とみなされていた徴税人、遊女の態度をたとえたものです。

A) 宗教指導者たちより徴税人、遊女の方が神様に近い?

1)宗教指導者たちの偽善

イエス様はこのたとえを律法学者、祭司といわれた当時の宗教的な指導者に向かって語られました。彼らが憎んでいたイエス様の言葉でしたし、親子の間の道徳としては、あまりにも分かりきった質問でしたが、人をひきつけるイエス様の言葉に彼らもつい素直に答えてしまいました。しかし彼らが答えたその正解は結果として、彼ら自身を非難することになるものだったのです。

 彼らは他の人々よりも、神様の意思を聞くことの出来る立場にいました。聖書も旧約聖書はほとんど暗記しているような人々でした。祭司は決められた宗教儀式を毎日執り行い、律法学者は人々の生活が旧約の教えに合っているかどうか教え導く立場にありました。

 それなのに彼らは神様に対して表面的に儀式を行うだけであるばかりか、「神様に従う」ということをいつの間にか自分たちが作り上げた律法と呼ばれた「決まりの体系」を守ることにすり替えて、人々に押し付けていました。かつて預言者イザヤは

主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」(イザヤ29:13−14)

と預言して警告しましたが、事態はその700年後のイエス様の時代になっても変わっていなかったのです。

2)罪人とみなされた人々の信仰

一方、宗教指導者の教えによる影響で、言葉を交わすことも、近づくことも、穢れるといわれて差別されてきた人々は、その厳しい境遇の中で自称「宗教家」たちよりもずっと真剣に、日々の生活の中で神様を求めていたのです

同じマタイによる福音書の12章38−44節を読んでみましょう

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

もうひとつはルカによる福音書18:9-14です

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14)


3)あなたの生き方はどっちだったか?

まさか自分の生き方が2000年前のユダヤ教指導者と似ていると思う人はいないかもしれませんが、どうか気をつけてください。あなたの神様との関係の持ち方が表面的なものになってしまえば、あなたは「律法主義者」とイエス様に呼ばれた人々と同じになってしまいます。人の立ち居振る舞いや外見を見て「いやな人」「係わり合いになりたくない人」と裁くなら、あなたはファリサイ派です。そしてこの教会がそのようなものの集まりだとしたら、私たちには「ユアチャーチ」を名乗る資格はありません。「アワチャーチ」と名乗らなければならないのです。あなたの祈りはあの2人の祈りのどちらに近いでしょうか?あなたのささげものはあの二人のささげもののどちらに近いのでしょうか?

もちろん徴税人や遊女が神様にほめられるような生活をしていたわけではありません。徴税人というのはローマ帝国にユダヤ人から税金を集める事を請負い、大きな利幅を取って同胞を苦しめていたので、敬虔なユダヤ教徒からは異邦人、遊女と同列にみなされていました。彼らの多くは偽善者ではなかったとしても罪深いことに変わりはありませんでした。ただイエス様は、宗教指導者たちのように「お前たちは救い難い」と見捨てずに手を差し伸べました。この福音書の著者とされるマタイは徴税人でしたが、それの権利を捨ててイエス様に従いました。イエス様に救いを求めた遊女も赦され新しい人生をはじめることが出来ました(ルカ7:36-50)

B) どちらにしてもやり直せる

1) あなたが自分を申し分ないクリスチャンだと思っているなら

もしあなたが自分を申し分ないクリスチャンだと思っているなら、それは沢山の落とし穴があるところを目隠しをされて歩いているようなものです。これはクリスチャンになったばかりの人よりも長くクリスチャンとして歩んでいるものが自戒しなければならない危険です。けれども、「いつの間にか自分もただ赦された罪人に過ぎないのだという事実を忘れ、律法的になって裁きあっていた」ということを認め反省し、もう一度あの救われた喜びに生きたいと願い求め、イエス様の前にへりくだって祈るなら、イエス様は再びチャンスをくださいます。

2)あなたが自分を落第クリスチャンだと思っているなら

1)のカテゴリーのクリスチャンの正反対にいろいろな失敗を気にして、「天国に帰ったとき私はきっと神様に叱られる、いやもしかしたら天国の門の所であなたには入る資格がない」といわれる事を恐れているクリスチャンもいます。ほとんどのクリスチャンはこの両極端のクリスチャンの間に位置しています。もしあなたが、こちらのタイプに近くて、今クリスチャンとして自身がないとしても心配は要りません。神様はあなたの地上での成績を記録してそれにしたがって天国での処遇が決まるわけではないからです。私達は行いによって救われたのではなく、ただイエスを主と信じ受け入れたことにより赦され救われているのです。クリスチャンとして向上する必要がないといっているのではありません。それはヤコブの手紙を読めば明らかなことです。イエス様は何度失敗しても、そのたびに立ち上がりイエス様の方に向かって駆け寄って行くペテロのような信仰を喜ばれ、そのような失敗なら何度でも赦して下さる方なのです。

3)あなたが今までクリスチャンでなかったなら

あなたは今までイエスを主と知らずに人生を歩んでこられました。もし、あなたがこれまでの歩みに満足出来ず、やり直しが出来るなら、と考えておられるなら、イエスキリストを自分の主として歩み始める事をお勧めします。クリスチャンとは、もうそれまでのように、自分を中心に物事を考えるのではなく神様に従って生きる決心をした人のことです。あなたが「やり直したい」と考えるのは、自分の考えに頼り道に迷ってしまったからです。この迷いからあなたを救い出し、正しい道に歩ませるためにイエス様は来て下さいました。この方に信頼を寄せるなら世の中に取り返しのつかない失敗はひとつもありません。

メッセージのポイント

神様はすべての人に、「神の国に至る道」、「永遠の命を得る方法」などと聖書で表現されている、神様との関係回復のチャンスを与えていてくださいます。それは「あなたが本当にあなたらしく生きる道」です。今までどういう生き方をしてきたか、ということは全く問題になりません。あなたはどうして欲しいのか?」今もイエス様はあなたに問うておられます。「ほっておいて欲しいのです」と答えるのではなく「癒していただきたいのです」「変えていただきたいのです」「赦していただきたいのです」と願うところから祝福された人生は始まります。

話し合いのヒント

1) 自分の神様に対する態度をどの様に変えたいですか?

2) なぜ宗教指導者より罪人たちのほうが神様に近いのでしょう?