2004/8/1 メッセージ
あなたが担う重要な役 マタイによる福音書21:33-46
まず始めに今日の聖書の全体を読んでみましょう
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。(33) さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。(34) だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。(35) また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 (36) そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。(37) 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』(38) そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。(39) さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」(40) 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(41) イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』(42) だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。(43) この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(44) 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、(45) イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。(46)
A) この話が教えてくれること
1)神様と人との関係の歴史
イエス様は当時のイスラエルがどれほどひどい状態であるかを知らせるためにこの話をなさいました。主人とは神様です。農夫たちというのはイスラエルの指導者たちです。主人が農夫のところに送った僕とはバプテスマのヨハネまでの預言者たちのことで、最後に送った息子はもちろんイエス様です。つまりこのはなしはやがてイエス様が十字架で殺されることも暗示していたわけです。季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちとは、イエス様御自身が43節で説明されたようにそれにふさわしい実を結ぶ民族つまりキリストの教会です。キリスト教会は旧約聖書の時代のイスラエルに代わって、新しい神の民として立てられたのです。それはすべての人が神様と良い関係を保つことによって、良いものを生み出してゆくための模範となり導き手となるためです。
2)イエスキリストが来られた目的(42-44)
イエスさまは御自分が殺されてしまうことだけではなくそこから驚くべき展開がある事を付け加えてお話されました。それはイスラエルには邪魔者として殺されてしまったイエス様がよみがえられて神の国の実現に欠かすことの出来ない存在として、生きて働かれるであろうということです。このことはすでに旧約聖書でも預言されていました
家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。(詩編118:22-23)
この話は人類の歴史全体のたとえですから、もう終わってしまっているのではなく今でも続いている物語です。世界は神様のものであり続けています。イエス様は生きて働いておられます。人々は交代しながら登場し、今あなたの出番となっているのです。
3)終末の時に生きる私たち
聖書は十字架の出来事の後、世界は終末の時を迎えていると教えています。このことは私たちにとってはイエス様の十字架が単に2000年前の歴史的出来事であるばかりではなく、今の自分の生き方を選ぶ基準である事を教えています。今の時代でも相変わらず、最初の農夫たちのように神様を無視し自分勝手な生き方をしている人は沢山います。現代の預言者として「このままではいけない」と警告する人もいます。このような中に私達は、正しく振舞える農夫、ふさわしい実を結ぶ民として登場しているのです。
B) あなたは「ほかの農夫」「ふさわしい実を結ぶ民族」
1) あなたは自分の人生のオーナーではない
神様はあなたに最初の農夫のような役を演じて欲しくはないと、願っておられますが、選択はあなたに任されています。最初の農夫たちがぶどう園を自分のもののように錯覚し収穫を独り占めしようとしたことが間違いの始まりです。あなたも自分が自分の人生という豊かな収穫をもたらす畑のオーナーは神様であって自分ではないということを素直に認めますか?それが自分の人生を主に明け渡すということです。私は22歳のとき、古い農夫の役を演じ続けていた自分に気付き、イエス様に「私の人生はあなたのものです。今までの罪を赦して、あなたの働きのために用いてください」と告白してクリスチャンになりました。クリスチャンは農夫であり預言者でもあります。農夫として神の国の収穫として救われた魂を心を込めて手入れします。それは互いに仕え合うということです。また、まだイエス様が主であるということを知らずに、知らず知らずのうちに神様に背いて生きている人々に「ここに唯一の道がある」と伝える預言者として、周りの人々に接するのです。
あなたの選択はあなたの人生を正反対の方向に導きます。ガラテヤの信徒への手紙5:16-2を読んでみましょう。
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
最初の農夫たちのように肉にしたがって生きるなら争い、悲しみ、怒りの実を得ることのなります
しかし、イエスキリストの例に従って生きるならその結ぶ実は「愛・喜び・平安・・・・」 なのです。
2) 種まき、日々の手入れ、収穫
私たちが豊かな実りのためになすべき勤めは、農夫と同じように「種まき」「手入れ」「収穫」です。
私達はまだ主を知らずに生きている人々に、主を信じて生きることの大切さ、素晴らしさを伝え、御試し期間(クリスチャンと付き合ってみること、教会に行ってみること)をやってみることを勧めます。これが種まきです。本当の植物と同じように、蒔いてもなかなか芽を出さない種もあれば、芽を出してもすぐにかれてしまうものもあります。大きく茂っているように見えて全然実を結ばない株もあるのです。けれども種を蒔かなければ一本だって芽を出すことはないのですから、私達は倦まずたゆまず種まきを続けるのです。
次に私たちには、芽を出し成長中の株の手入れという仕事が待っています。蒔きっぱなしでは、多くの株が実をつけるまでに成長できずにかれてしまいます。その人の霊的な成長を望まないサタンは害虫のように誘惑や困難で何とか実を結ぶ前にからしてしまおうと考えています。私達は互いに必要を満たしあうことによってサタンの攻撃を退けるのです。ここに私たちの交わりがとても大切で、表面的なものでは意味がないことが良く分かります。
やがてクリスチャンは成長しいつの間にか自分でも種まき手入れをし、ほかの人の成長を助けるようになれます。これが神様にとっての、私達にとっての成長です。
教会は建物としても、人の集まりとしてもこの秋から一段と強く大きくなろうとしています。私の夢は大きな教会の牧師になることではなくこの教会が、新しい農夫の群れとして多くのクリスチャンを生み、育て、送り出すような教会になれることです。それが私たちに与えられている役なのです。私の牧師であるホープチャペルのラルフモア牧師は「牧師の成功の尺度は教会のサイズではなく自分の教会以上に素晴らしい教会の牧師になる人をどれだけ育てたかという点にあると思う」と、言ったことがあります。私もユアチャーチの牧師の座を独占していたくはありません。皆さんにとっては迷惑な話かもしれませんが、私はここに立つ時いつもこの聴衆の中にやがてユアチャーチの牧師となる人が起こされるよう期待しています。すべての人が牧師になるわけではありませんが牧師を育てるのはすべての教会員の大切な務めなのです。
メッセージのポイント
聖書は私たちに様々な事を教えてくれますが、その中心となる教えはとてもシンプルです。このたとえ話は、聖書のメッセージの全体が凝縮されています。人は本来神様のものである世界の主人であるかのように錯覚していますが、実は神様から管理を任された者に過ぎません。この誤解こそ、人が誤った道を歩む原因です。この悲劇を解消するために神様が送った預言者に耳を貸さないばかりか殺してしまい、ついには最後の使者として送られたイエスキリストを十字架にかけてしまった罪に私たちも問われています。なぜなら神様は私たちの行為ではなく心を裁く方だからです。ところが人知をはるかに超えた神様の計画は、私たちの罪の最悪の現れである十字架を、その罪を赦すしるしともされたのです。
話し合いのヒント
1) 神様は主人に、預言者は僕(しもべ)に、ではあなたは何にたとえられていますか?
2) 私たち人間が誰でも持っている罪の性質とはどのようなものなのでしょう?