2004/8/29 メッセージノート
私たちが最も大切に考えるべきこと
マタイによる福音書. 22:34-40
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(34-36) イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。(37-38) 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(39) 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(40)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申6:5)
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ19:18)
聖書は辞書のようにページがたくさんある本で、そこから大変多くのことが学べます。しかし聖書は辞書のようにあらゆる知識がただ並んでいるだけではなくたった一つのことを中心としまとまっているものなのです。
その中心とは何でしょうか?それは「愛する」ということです。しかし聖書が教える「愛」と私たちが普通思い浮かべる「愛」とは、ちょっとニュアンスが違います。
日本語なら「大切」という言葉がその内容に合っています。私たちはその人が自分にとって大切なら、その人のためなら何でもしてあげたいと思うのではないでしょうか?またその人を喜ばせたいと思うのであって傷つけたいとは思わないでしょう。
それはその人の言いなりになるということではありません。その人の本当の必要を知ってそれを満たすことです。大切だからこときびしいことを言わなければならない時もあるのです。
この問答はマルコやルカも記していますがマタイにはない「力を尽くして」という言葉を加えていますが、愛するとは、単に好きだと感じる以上にエネルギーを必要とするのです。
A) 主である神様を愛する
マタイが「力」を取り上げなかったということはイエス様が、心、精神、思い、力を厳密に分けて考えることを強調されたのではなく、全人格、あなたの存在のすべてをかけてあなたの主である神様を愛しなさいということです。
しかしこのように分けられたものをひとつずつ考えてみると、一言で全人格をかけてといっても様々な面があることが分かります。
1) 心を尽くして
心のこもっていない言葉や行動は人をがっかりさせます。神様だって同じです。大好きですと言っても、本当にあなたの心がそう感じていないなら相手はすぐにそれに気付きます。
結婚カウンセリングのとき良くお話しするのは、夫婦になっても週に一度ちゃんとデートしなさいということです。
夫婦になればほかの人よりも同じ家に住み多くの時間をともに過ごします。だからといって、わざわざデートしなくてもというのはお互いが燃える火のような存在ではなく、そこにいるのがあたりまえの空気のような存在となってしまうことということです。
日曜日の礼拝をクリスチャンの義務だと考える人もいますが、実は神様とあなたの週に一度のデートなのです。神様はいつでもあなたとともにおられます。でも神様はあなたと礼拝という特別なときを過ごすことを楽しみにしておられるのです。デートを義務のように感じてしまうならその愛はさめてしまっているといわなければなりません。あなたは神様の愛にこたえて、「あなたを愛します」と決心してクリスチャンとして歩みだしたのです。その愛はさめてはいませんか?心からの礼拝をささげることは、神様に対する最高の愛の表現です。
2) 精神を尽くして
心・精神・思いは言葉の意味としては重なり合う部分が多く、またそれぞれの言語によっても使い方のニュアンスが違っています。
精神という言葉はとても広い意味に使われている言葉なのですが、ここでは魂と訳したほうがいい言葉です。魂は私たちの肉体が滅びても変わる事のない私たちの本質です。
心が晴れているか、沈んでいるか、思いが燃えているか、さめているかは自分でも良く分かりますし、祈りの力や意志を働かせて変えてゆくことも出来ます。ところが「精神」は「心」や「思い」と違って私たちの意識よりも下にある存在なので、私達が自分でコントロールすることは難しいのです。
そこで私たちは自分を造って下さった神様に願うことが出来ます。「どうか私の魂が永遠にあなたを愛し続ける存在であるように導いてください」「私の全人格の中心である魂があなたに相応しいものであるように変えてください」 神様は私たちの祈りに応えて御自身の霊である聖霊によって私たちの魂の健康を支えてくださるのです
3) 思いを尽くして
皆さんイエス様の夢、神様の夢を見たことがありますか?
今から千年前くらいの日本人は誰かが夢に出てくると、その人が自分に好意をよせていると考えたそうです。千年後の私たちは普通、夢に出てくるのは相手ではなく自分の思いの反映だと考えますね。
私たちは大切な人の事を一日に何度も思いうかべます。その思いが強ければ夢にまで現われるのです。あなたはどんなとき神様のことを思いますか?神様は目には見えない方なので、あなたが神様を思うことを全く忘れて日々を過ごしていても「少しは私のほうを見て、声をかけてください」と文句を言ったりはなさいません。
しかし神様を思うことを、どこかに置き去りにして日々を過ごしていくなら、それはやがて大きな問題となって目の前に立ちふさがることになります。
B) 隣人を愛する(39)
1) 隣人を愛する
さてイエス様は第一の事が神さまを愛する時だとおっしゃった直後にたのまれてもいないのに第二のこととして隣人を自分と同じように愛しなさいといわれました。それは人を愛するということが神様を愛することと切り離しては考えられないことだからです。
何故それが切り離せないのかお話ししたいと思います。それは人を愛するという事が神様を愛する事の一部であり、神様を愛することは人を愛することの前提だからです。
イエス様はルカによる福音書によるとこのあとでなされた隣人とは誰か?という質問に対して興味深い答えをなさいました。イエス様は「隣人とは誰か」が問題なのではなく「隣人となる」ということが重要であるといわれました。
もともとここで隣人と訳されている言葉は、同じ民族である他人を指す言葉で、異邦人は含まれません。しかしイエス様は、民族的な色分けではなく、愛するか愛さないかの違いによって隣人になるかならないかが決まると教えられました。私たちは大切な人の子供をその親を大切にするのと同様に大切にします。
すべての人が神様の恵みによって生かされているのです。いわば神の子供たちです。だから、隣人を愛さないでいい理由はどこにもないのです
2) 自分を愛する
ところであなたは自分のことを愛していますか?それは毎日自分の姿を鏡に映してうっとりすることではありません。
自分を大切にすることです。イエス様は自分自身を愛するように隣人を愛しなさいとおっしゃいました。自分自身を愛せないなら、本当に隣人を愛することなど出来ないのです。
自分を愛するとは、あるときにはほめてやることであり、あるときには赦してやることであり、またあるときには叱ってやることです。
メッセージのポイント
イエス様は「愛する」ことがあらゆる教えの核心であるとともに旧約聖書全体の基礎でもあるとおっしゃいました(40)。
そして「愛すること」にはコインのように切り離すことの出来ないけれど二つの側面(神を愛する、人を愛する)があることを教えて下さいました。
神を愛していると言いながら人を愛することをしないなら、その言葉は偽りです。また本当に人を愛することは神を愛することなしにはありえません。
話し合いのヒント
1)何故イエス様は最も大切なことと問われて2つのことを答えられたのでしょうか?
2)神を愛するとはどういうことですか?