2004/9/5 メッセージノート 

なぜ新しいチャペルなのか? エズラ3章

いままでのチャペルを借りた時も、実はこちらの部屋も空いていました。その時は、このように両方借りることができるようになるとは思ってもいませんでした。人数も多くなく、経済的にも厳しかったのです。今も厳しいことには変わりありませんが、ここ数ヶ月は礼拝も満席となることが多く、何とかしなければならないと思っていたところに大家さんからのよいオファーがあったのです。それは私たちにも何とかなりそうな条件だったので決心したのです。皆さんの心からの献げものを有効に使わなければなりませんから、よい用い方を祈り求めています。今朝は「この場所がどのような意味を持っているのか」という事を学んで、私たちが正しく用いてゆくことができるようにしたいと思います。

今朝の聖書の個所はエルサレムで二回目の神殿建設のことが記してあるエズラ書の3章です。エルサレムには歴史上3回神殿が建てられました。イスラエル民族はもともと遊牧の民ですから、神殿が建てられたということは民がその地に定着した事を意味しています。最初に立てられたのはソロモンの神殿と呼ばれているとおりダビデ王の子ソロモン王がその富と権力を用いて建設されたもので、イエス様が生まれる1000年位前に建てられ、およそ360年存続したあとバビロニアの侵略により破壊されました。エズラが記している第二神殿は、バビロニアの支配が終わり、ペルシャの時代となり、ペルシャ王により建設が許可されて70年後に完成したものです。これは約480年存続しました。イエス様の時代にあった神殿は第三の神殿で、第二の神殿がイエス様のお生まれになる40年ほど前にローマによって破壊されたその20年後に工事が始められ、イエス様が宣教を始められる少し前に完成したものですが、これもやがて再びローマ軍によって破壊されてしまいました。

私が日曜日の午後などに結婚式をしているホテルにはチャペルの真横に神道の神殿があります。しかも全く同じドアの形をしているために、うっかり間違えて入ろうとしてびっくりしたことがあります。皆さんは神殿というとどのようなものを想像するでしょうか?イスラエルの神殿の中心部には十戒が刻まれた板を収めた契約の箱が安置された至聖所、その周りを取り囲む聖所、そしてその前に置かれた神様に動物の犠牲を捧げるための祭壇がありました。最初に神殿建設を行ったソロモンは、その完成の演説で「私たちは最善を尽くして立派な神殿を建てたけれど、神様は人間の建てた神殿などには住まわれない方だ。」そのような考えを持っていたにもかかわらず、全力を尽くして神殿を建設したイスラエルの民に、キリストの教会は学ぶべきことがあります。

A) 聖所・祭壇としてのチャペル

1)神様の言葉が語られる聖所

ソロモンは神殿という建物が重要なのではなくその中心に置かれた神様の言葉こそ重要なのだという事を教えました。それは私たちにとってはチャペルで聞く聖書のメッセージです。私たちは自分の家でも聖書を開き神様から言葉をいただくことも出来ます。それでも日曜ごとにここにやって来る大切な理由があります。それは神様が個人としてではなく、ここに集う神の民全体に対する言葉として語ってくださるからです。皆さんは牧師というと人前で話しをしたり冗談を言って笑わせたりすることが好きなのだと思っているかもしれませんが、本当は、神様が自分を通して皆に語られるという、この身に余るような重大な責任を感じ恐れながらお話しているのです。

2) 「いけにえ」をささげる祭壇

神様は私たちに聖書のメッセージを通して語りかけられますが、私達はその応答として「いけにえ」を捧げるのです。イスラエルの民は実際に動物を捧げたわけですが、今の私たちに同じ事を勧められているわけではありません。安心してください。しかし、神様は私たちに動物を捧げるよりももっと本気になって捧げなければならないものを求めていらっしゃいます。詩篇51編18−20節を読んでみましょう

もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。

もうひとつ新約聖書から紹介します。ローマ12:1です

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

もう気が付かれたと思います。神様は本当は動物なんて望んではおられないのです。神様が望んでおられるのは私たちが自分自身をささげることなのです。私たちが礼拝で「あなたに私のすべてを捧げます」といっても神様がたちまちあなたを炎で包んで全焼のいけにえにしてしまうというわけではありません。そうではなく神様はあなたを用いたいのです。

ヘブル人への手紙13章14-16には神様が私達をどう用いたいかが記されています

わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。 善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。


B)それでは今、神殿とは?

1)神殿=教会=私たち自身

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。(1コリ3:16 -17) 

神様は人の手で造った神殿などにはお住みにはなりません。神様は信じる者一人一人の内に住われます。しかしそれは60億の神がおられるのでもなく、−人の神が60億に分散しているのでもありません。人々はそれぞれ孤立しているように見えますが、それは本来の在り方ではないのです。


2)心をひとつに合わせるところ

ヨハネの2章ではイエス様が、神殿を商売の場所にしてしまっていた人々を追い出そうとされた時の言葉として次のような言葉が伝えられています

ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。(ヨハネ2:18-21)

今イエス様のからだといえば、それは教会を指しています。

私が何度も皆さんに言うので、ユアチャーチのメンバーの頭の中では「教会=組み合わされた私たち自身」という図式が出来上がっているはずですが、私たちが組み合わされて一体であることは理屈でわかっていてもあまり意味がありません。私たちがともに集まり礼拝をささげ祈りあうのは、一体である事を保ち、喜ぶためです

3)砦として基地として

教会は弱っている時に守られる所であると同時に、この世界に神様の使者として出てゆくための基地です。精神的な意味だけで考えるなら、この二つの機能の為には建物などなくても用は足ります。しかし正しく用いられるならば、神様の働きのために有効なのです。ハワイのホープチャペルという教会が最初に礼拝をしたのはカイルアというビーチだったそうです。ハワイならではのアイデアでしたが天候の心配や日焼けの心配で、また教会スタッフは牧師をはじめ波乗り好きが多かったので、いい波が立っていると気が散ってずっと続けるわけにはいきませんでした。私にも無理ですね。また私の家が宮殿のように広ければ、皆さんには日曜ごとに来ていただけるのですが、残念ながら10人以上は無理だと思います。みんなの知恵をあわせて、この場所を多くの良いことに用いてゆきましょう。

メッセージのポイント

教会とはキリストの体、組み合わされた私たちのことであって建物のことではありません。しかし、私たちが共に集って礼拝をささげたり、働きを効果的に行ったりするために神様は建物としての場所を与えて下さいました。この揚所は私たちが「−人の人」のようになって礼拝をささげ、互いに愛し合うことを実践してゆくためのセンターなのです

話し合いのヒント

1) 旧約聖書における祭壇・神殿を私たちにとっては何にあたるのでしょうか?

2) 神様は私たちがこの場所をどのように用いることを望んでおられるのでしようか?