9/12/2004 メッセージノート

義人の生き方 (ルカによる福音書18:9-14) 佐藤恵一(キリスト兄弟団・日立教会牧師)

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。(9) 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。(10) パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。(11) 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(12) ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(13) あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(14) ?新改訳

イエス様のたとえ話です。このたとえ話には目的がありました。自分を義人だと自任し、他の人を見下している者たちにたちに対して教えようとされたのです。2人の人が登場します。聖書の中では有名なパリサイ人と取税人。この二人が祈るために宮に行きました。2人とも神を信じていたようです。

A.二人の祈りの共通点

1)二人とも自分のことを見て祈っている

2)二人とも事実を祈っている。パリサイ人(立派な生活をしていた、人々から尊敬されていた)取税人(罪人と呼ばれていた)

B.二人の祈りの違い

1)パリサイ人:立って(誰かと比べて自分を正しいものと評価している、罪を認めない)パリサイ人は自分の善行の上に立って祈った

2)取税人:遠くはなれて(隅の方?)神様との関係の中で自分を評価している)罪を認めている取税人は罪びとをあわれんでくださる神の愛と恵みの上に立って祈った

メッセージのポイント

イエス様はこのたとえを通して、自分の立派さを持って、自分を神の前に義としようとするこの世の価値観でなく、神によって義と認められる生き方、罪を認め悔い改めるものを義とされる神の価値観に生きるように私たちを励ましていてくださいます。