2004/10/3 メッセージ シリーズ <終末>U
イエス様が再び来られるとき マタイによる福音書24:29-51
先週に続いて、聖書が語る世界の終りについてお話しします。イエス様が世の終りに再び姿を現わされる、と聖書は語っていますが、それがどのようなタイミングで起こり、私たちにとってどんな意味があるのかということを今朝のテキストは教えてくれます。始めに29-31節を読んでみましょう。
A 世界最後の時の希望
1)イエス様が再び来られる (29-31)
「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(29-31)
先週、終りの時には私たちが今まで経験したことのない程の苦難が起こることをお話ししましたが、その後、もっと重大な事が起こります。宇宙全体が私たちの常識を超えた状態となり、そしてイエス様が再びこられるのです。それなのにすべての民族は悲しむ、のは何故なのでしょう?それはイエス様を迎える準備のできていない人がどの民族にもいるということです。それらの人々は、せっかくイエス様がこられたのに天使が声をかけてくれず、イエス様のそばに近づけないのです。
2)世界は滅びてもイエス様の言葉は滅びない (32-35)
今から20年くらい前、人類は今よりもっと滅亡の危機にさらされていました。世界は東西の両陣営で対立し、お互いに軍事力を増強する競争で、お互いに世界中の人を何度も殺すことができる核兵器を持ち、どちらかが発射ボタンを押せば相手もすぐにやりかえすという危険が現実にありました。しかし、この世界のどこにも安全な逃げ場はありませんでした。心配性で裕福なごくー部の人々は自宅に地下シェルターを作りました。地下シェルターは終末に対する備えにはなりません。物質のすべてがほろびてしまうのです。世界が戦争などで混乱すると人々は、価値がなくなってしまう恐れのある貨幣を金やダイヤモンドに変えて財産を守ろうとしましたが、終りの時には物質的なものは何一つ役立たないのです。でも役に立つものがひとつだけあります。32−35節を読んでみましょう
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(32-35)
物質的なものに信頼を置いているなら、終末は悲しみのときです。しかし私たちは物質的なものには頼らず、イエス様の言葉に信頼を置いている者たちです。終末がいつのことだか、今は知らされてはいません。とすれば、問われているのは今どのような生き方をするのか?というほかにありません。36−44節を読みましょう
B 目を覚ましていなさい
1)その時は誰にも分からないから (36-44)
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(36-44)
ここで語られていることは、そのときは誰にも分からないということです。あまり細かく解釈してみてもあまり意味がありません。2人に1人と書いてあるから、この時、イエス様に招かれるのは50%の確率という事ではないのです。分からないのだから目を覚ましていなさいとかかれています。目を覚ましているとはどういうことなのでしょうか?残りの45−51節を読んでみましょう。今日のテキストの中で特に心に留めていただきたい部分です。
2)言いつけどおりにしていた僕のように (45-51)
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。 もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(45-51)
ここにクリスチャンのこの世界での生き方、教会と社会の関係が示されています。教会はなぜこの社会に存在するのか?それはこの社会の本当のニーズを満たすことです。クリスチャンとその集まりである教会は、世界の真のリーダーとして立たされているのです。社会は表面的には、各国の政府、権力者、大企業によって導かれて進んでいるかのように見えますが実はそうではないのです。神様は教会を世界のリーダーとして置かれたのは、神様が国家の仕組みや権力や、資本によって変えようとなさっているのではなく、人の心を変えることから始めようとなさったからです。もしそうでなければ神様はイエス様ではなく天の軍勢を送られたはずです。それなのにクリスチャンが社会の仕組みに組み込まれ、飢え渇いている者を助けず、弱い者いじめに加担するなら、自分がクリスチャンだと思っていたとしても神様の目には、そうでなく映ってしまうことでしょう。
忠実な僕である真のクリスチャンは神の国の義が実現することを目指して、その時その時与えられている使命を果たしつつ歩んでゆきます。ユアチャーチがここに置かれた教会として与えられた務めを果たしつつ歩めるように、互いに愛し合い助け合いつつ進んでゆきましょう
メッセージのポイント
歴史には始まりと終わりがあります。地球には、世界には、と言い換えることも出来ます。しかし、イエス様の「忠実な賢い僕」として生きる者は、彼と共に時を超え永遠に生きる、と聖書は約束しています。これは素晴らしい約束です。ですから私たちは今のこの時を「忠実な賢い僕」として生きることを神様に期待されていることを忘れずに歩みたいものです
話し合いのヒント
1) イエス様が再び来られるのはいつのことですか?
2) 「目を覚ましていなさい」とは実際にはどのような態度を求められていることなのでしょうか?