2004/10/10 メッセージノート シリーズ<終末>3

再び来られる主をどう待つか?マタイ25:1-30

先月から「世の終り」についてお話ししています。今日は私たちが実際にどんなそなえをしたらよいのか?ということを二つの面からお話しします。まず始めの4節を読みましょう。

A)聖霊による内面の準備-賢いおとめたちのように(1-13)

1) 油(聖霊)を切らさない賢さ(1-4)

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。(1-2)

愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。(3-4)

聖書では、油は聖霊(神様の霊)を意味しています。私たちがこの世界でどのような働きをしようとしても、聖霊に満されていなければ、神様に喜ばれることを長続きさせることはできません。

聖霊に満たされるということについては二つの両極端に陥ることを注意しなければなりません。

ひとつは、クリスチャンは誰でも聖霊に満たされているので、わざわざ求める必要はないという考えです。このような考えを持つ人は、聖書の言葉に頼るべきであって感覚に頼ってはいけないと警告します。しかし実際のところ聖霊に満たされていなければ「神の言葉の力」を100%正しく受け取ることは出来ないのです。聖書の言葉を沢山知っていても、それを実生活の中で力強く生かしていくことが出来ないなら意味がないのです。聖書は何度も、信者であっても聖霊に満たされることを勧めています。

もうひとつの極端はあまりにも感覚や現象を重要視してしまいそのこと自体が目的となってしまうという極端です。聖霊に満たされるといろいろな感覚を経験することがあります。パウロが経験したように、あまりにも強い力に打ち倒されてしまったり、突然異言を語りだしたり、喜びがあふれて笑いが止まらなくなったということも聞くところです。ところがそのような状態は強く求めるなら、聖霊が下さらなくても人間が無意識のうちに自分で作り出してしまうことの出来ることです。聖霊に満たされること自体が目的ではありません。聖霊に満たされるということを大事に考えていたパウロでさえ、賜物自体があってもそれが愛として現れなければ何の意味もないと第一コリントの章で警告しています。

それではどうしたら聖霊に満たされ続けることが出来るのでしょうか?簡単です。求めることです。神様は良いものを願うならそれを与えてくださる方です。ワーシップの中で、ミニストリーで、日々の祈りで真剣に求めてください。

満たされているかどうかは、実となって現れているかで分かります。どんな不思議な感覚があるかではありません。

2) 終りの時が来た時にあわてても間に合わない(5-13)

次に5−13節を読みましょう。

ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。(5-7)

愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。(8-12)

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(13)

誰もあなたの代わりに聖霊を溜め込んであなたに分けてあげることは出来ません。賢い乙女たちがけちだったのではありません。私たちは求めて神様の霊に満たされることはできても、人に分けてあげることの出来るようなものではないのです。忘れてはならないことは「聖霊は神様御自身だ」ということです。聖霊に満たされることは、終わりの日のために私たちのできる最善の準備のひとつです。

B)働きによる実際の準備-資産運用をまかされた者のように

しかし、聖霊に満たされること自体が目的ではありません。愛の働きの実際の力となるのでなければないとお話しましたように、私たちには実際にすべきことがあります。自分に与えられている賜物を十分生かして隣人を愛する、隣人に仕えるということです。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。(14-18)

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(19-23)

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。(24-28)

だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」(29-30)

1)誰でもその人に相応しい賜物が与えられている

5タラントンの人と2タラントンの人の違いは、託された金額の違いです。人はみな能力が違いますから、この主人はその人が十分に活用できる金額を、能力に応じて預けたわけです。神様は私たちに、もてあますことなく用いることの出来る、賜物を与えていてくださいます。多くできることが素晴らしいことなのではなく、自分の賜物を忠実に用いることを求いられているのです。5タラントンの人、2タラントンの人、設けた金額は違うのに全く同じ言葉でほめられています。「少しのものに忠実」と書かれてるので間違えやすいのですが、タラントンは決して少額の単位ではありません。日常生活では使わない、ドルで言えばミリオン・ビリオンといった単位です。聖書にはデナリという単位が出てきます。1デナリは労働者の一日の賃金に相当します。そして1タラントは6000デナリに相当しますから、一日の賃金が1万円とすれば、それぞれ3億円、1億2000万円、6000万円の資金を預かったということになります。あなたは神様からいただいている可能性を小さく見積もりすぎていませんか?「あの人のように多くの才能を、大きな力を、たくさんの時間を与えられていないから神様に用いられることなんて出来ない」と思っていませんか?神様が皆さんに与えている可能性はあなたが考えているよりもずっと大きなものです。

2)忠実な僕と怠け者の悪い僕との違い

2タラントンの人と1タラントンの人との違いはどこにあるのでしょうか?5タラントンの人と比べれば二人の預かった金額はそれほど違いません。違いは運用したか、何もしなかったかの違いです。

神様からいただいた、多くの良いものをどう用いたのかがポイントです。1タラントンの人は使ってしまったわけではないのです。それでも叱られてしまったのは、積極的に使わなかったからです。

メッセージのポイント

イエス様を主と信じ従って行くということは、天に帰られたイエス様が再び来られる時まで、与えられている賜物を用いて、自分にゆだねられた働きを忠実に行い続けるということです。どれだけ沢山のことをしたか、大きなことをしたかが問われるのではありません。そうではなく、それぞれに与えられたものを生かすことが大切なのです。

話し合いのヒント

1)あなたに与えられている賜物がどのようなものであるか知っていますか?

2)あなたはゆだねられた神の国の資産を良く運用していますか?