2004/10/24 メッセージノートシリーズ<終末>4

羊?山羊?あなたはどっち マタイによる福音書25章31-46節

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。(31-33)

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(34-40)

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(41-46)

A)神様の判断の基準

1)羊飼いに従って生きるのか?自分勝手に生きるのか?

イエス様は羊と山羊にたとえて永遠の罰を受ける者と、永遠の命にあずかる者の違いを説明しておられます。永遠に神の国に入れない者と永遠に神の国に属する者との違いとも言えるでしょう。羊も山羊も聖書ではおなじみの動物ですが、神様と私たちとの関係を教える場合、人は山羊ではなく羊にたとえられていています。聖書は山羊、羊の優劣を言っているわけではありません。ただ違う種類の動物なのです。イスラエル民族にとっては羊のほうがより身近な動物だったようですが、山羊は羊より賢くて羊の群れの先頭に立たせることもあったようです。私たちが問われているのは羊・山羊つまりタイトルではありません。男女、老若、人種、国籍、地位、階級ではなくどのような生き方をするのかということです。そしてここの言い方を借りるならどれだけ心を尽くして王、つまり主にお仕えしたかという事が問われているのです。羊も山羊も主人がいなければ生きてゆくことの出来ない動物です。特に羊は、羊飼いに守られた群れの中でなければ、自分で食べ物や水場を見つけることも出来ず、獰猛な動物に対しても無力なのです。聖書では何度も、正しい指導者のいない民の悲惨な状態を『飼い主のない羊のよう』と表現しています。自分の羊飼いを知らなければ、羊は迷子です。中には自分の羊飼いに従っていたつもりなのにいつの間にかはぐれてしまっている羊もやはり迷子です。あなたはしっかりつながっているつもりで、実は迷子になってはいないでしょうか?

2)神の国に入るのか永遠の火に向うのか?

先にもふれたように山羊は決して無益な動物ではありません。しかしたとえられている山羊型人間には全く希望がありません。羊型人間には『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』それに対して『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』とはなんということでしょうか?迷子にならなければ神の国に永遠に憩うことが出来ます。しかし群れからさまよい出てしまえば、そこは永遠に『永遠の命』に至ることのない永遠の罰にとどまることを意味します。これは大きな違いですからしっかりと自分の足元を見据えなければいけません。

B)あなたの結未をもたらすもの

1)惜しみなく人々を愛すること

実際羊と分類される者も、山羊とされる者も、イエス様に対して何かをした、あるいはしなかったという自覚はなかったので、いつあなたにしたでしょうか?しなかったでしょうか?と驚いて尋ねています。私たちの羊飼いイエス様に従って生きるとはどのようなことなのでしょうか?今日の聖書の個所に書かれていることは驚くべきことだと私は思います。イエス様に仕えることは実は、私達が互いに仕え合うことだと言うのです。私の兄弟である最も小さなものにとイエス様があえて言いそえたのは、いつの時代でも同じように弱い者、貧しい者、小さい者が顧みられずに苦しむことが多いからです。去年のクリスマスにみんなで読んだ絵本「くつやのマルチン」は原作者トルストイがこの個所をヒントに書いたものです。私たちの持つ罪の性質は、自分に何か益をもたらすように見える人には親切でも、自分にとって価値がない人には恐しく冷酷でいられてしまうものです。私たちにどれほどの価値があってイエス様は身代りとなって下さったのでしょうか?イエス様がそうして下さったのは、むしろ私たちに価値がないどころか、罪深く互いに傷つけあってしまう私たちを深くあわれまれたからです。イエス様はこのあわれみによって罪赫された者に相応しく、あわれむ者になりなさいと言われているのです。この教会がユアチャーチと名付けられている理由をごぞんじですか?Youは礼拝や祈りの中ではイエス様に対して、日常の会話の中では自分ではなく相手に対して使われる言葉です。教会は自分の満足の為にではなく、あなたを通して誰かがなぐさめられ、いやされ、力付けられるために存在するのです。ユアチャーチが本当に神様に仕えている教会かどうかは、私達の日常の歩みにかかっているのです。

2)惜しみなく神を愛すること

ここまで考えてくると、「そうか、人々を愛するなら、神様に直接すること、礼拝、祈り、献金といったことはあまり重要ではないのかと考えてしまう人がいるかもしれませんが、それは見当はずれです。なぜなら神様の愛という栄養を絶えず補給していない限り人を惜しみなく愛することは不可能だからです。ですからユアチャーチは人に仕える、実際に何かをする以前に、まず主に礼拝を捧げ続けるライフスタイルを持つことを教えるのです。そしてそこで得たものを惜しみなく用いるように私たちは毎週日曜の礼拝後、それぞれの持ち場に遣わされてゆくのです。

3)礼拝から始まる日々の歩み

人に仕えるのが忙しいから神様のことはあまり出来ません。あるいは神様に仕えるのが忙しいといって人のことを考えている暇はありません。というのはどちらもクリスチャンとしてバランスを欠いた生き方です。

人を愛する事と神様を愛する亊、人に仕える事と神様に仕える事は異なる事、矛盾する事ではなく、私たちにとっては同じひとつの事なのです。これがバラバラになっていないということは礼拝と日常生活がはなればなれになっていないということです。

私はほとんどの皆さんと同様、羊を飼った経験がありませんから、羊がどのように一日をすごすのか知りませんが、羊が出てくる聖書のたとえを見てゆくと、羊的人間がどのようなものであるかが分かってきます。

羊飼いが朝早く、安全な寝場所から羊たちを緑豊かな場所へ、あるいは水場に連れてゆくことを想像してみましょう。本当の羊だったら、皆羊飼いの「行くぞー」という声に反応して歩き出すでしょう。しかし人間という動物はその点、ダメなのです。自分の主がどんなに声をかけても、耳をふさいで寝ていたりするわけです。自分を支配する者はいない、主はいないといって危険な谷に迷い込んでしまうのです。

この頃のカレンダーは月曜日が最初で日曜が最後、しかも土日はほかの曜日のスペースの半分というのを良く見かけます。ビジネスには便利かもしれませんが、日曜日が週の初めの日、霊的なエネルギーを神様から沢山いただいて一週間を力強く歩くという本来の意味からはかけ離れています。皆さん、今日は週の最後の日、明日からまたしんどい一週間がはじまるなんて日曜日も午後になるとため息をついている人はいませんか?

そうではありません。日曜日は週の初めの日、礼拝で神様からたくさんのものを頂いて元気になって週を始める日です。


メッセージのポイント

主に仕える、主を信じる、主を愛することは、主が愛される小さな者の一人一人を愛することに他なりません。そして愛することは与えることです。主の民と認められる者と「私とは関係ない」と言われてしまう者の違いは、人に喜んで与える者か、人に求める者かの違いです。

なぜクリスチャンは与え続けることができるのでしょうか?それは、主が私たちを満し続けて下さるからです。

話し合いのためのヒント

1)羊と山羊はそれぞれどのような人をさしていますか?

2 )ただ与え続けて、自分がからっぽになってしまう、恐れはありませんか