2004/11/7 メッセージノート “「ローマの信徒への手紙」で信仰の基礎を固める”シリーズ I
パウロに学ぶクリスチャンの人生の目的
クリスチャンって何者?(キリストイエスの僕・使徒とは)ローマの信徒への手紙1,7節
序
ローマの信徒への手紙は、神様が私たちに、どのような生きかたを望んでおられるのか、ということを具体的に教えてくれているという点で重要な手紙です。この手紙を書いたパウロはクリスチャンを迫害する「サウロ」(ヒブル語読み)として知られていました。そんな彼がどのようにしてクリスチャンになったのかは使徒言行録の9章に書かれています。ユアチャーチのメッセージは聖書を学ぶことが目的ではなく、聖書から私たちの生きかたを学ぶことが目的ですから、書かれた背景、年代など聖書学的なことは必要最低限にしかふれません。もしあなたがこの手紙についてもっと詳しく学びたいなら、良い参考書を紹介しますから、声をかけてください。
今朝、第一回目として取り上げるのは、最初の挨拶の部分です。手紙の最初の部分というのは、あまり重要なことは書いていないのが普通ですが、この手紙は違います。パウロはここで「自分が何者であるのか」という自己紹介をしています。そこには短いけれども、クリスチャンの行き方のエッセンスがこめられているからです。それでは読んで見ましょう。
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、(1)
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(7)
ここに書かれているのは、差出人と受取人です。そんな時には2節から6節までを飛ばしましたが、そこは今日の一番大切なキーワード「福音」についてパウロが説明している所なので来週、詳しくお話します。
会ったことのない人に手紙を書いたことはありますか?そういうときには自分が何者なのかを相手に分かってもらうために自己紹介をします。そこでパウロもローマの信徒の人々に自己紹介をしているのです。パウロはここで「キリストイエスの僕」「神の福音のために選び出された者」「召されて使徒になった者」と自分を表現しています。順番が前後しますが初めに「召されて使徒となった」ということを考えてみましょう。
1)召されたもの
7節も併せて読んでみると「召されて」いるのは差出人パウロだけではなく受取人ローマの教会の人々も「召されて」いることが分かります。召されるというのは、日本語では今はあまり使わない古い言葉です。名詞では「召し」「召命」と言います。何かの任務を与えるために呼び出される。天に召されるというのは死ぬということです。ドイツ語ではベルーフというのですが、この言葉は「職業」という意味ももっています。つまりどのような仕事についているとしても、神様がその仕事をするように私を任命したという考え方が根底にあるわけです。けれども仕事は私たちの「召し」の一部であって、実はクリスチャンにはユダヤ人であれそれ以外の異邦人であれ、神様にあることをするために呼び出された者なのです。それは使徒という役割を果たすためです。使徒という言葉は狭い意味では12人の弟子を指します。使徒言行録では死んだユダの代わりに使徒を選ぶくじを引いたことが記録されています。教会内の具体的な役職だったのです。しかしパウロは自らを使徒と呼んでいますが、公式の手続きで使徒になったのではありません。今では教会にはそのような特別な職があるわけではありません。15年位前にある国から来た宣教師が「私は日本担当の使徒として神様に召されているので、日本の教会、クリスチャンはみな私の言うことを聞かなければいけません」と言っていたことがあります。もちろんほとんどの人は相手にせずにやがていなくなってしまいました。今でも時々そんなことをいう人が登場しますが、自分が、特別な意味で「使徒」と称する者には警戒したほうよいのです。もともと使徒とは支配者ではなく「使者、大使、特別な使命を帯びて派遣された者」を意味する言葉ですから、そのような職が定められていない今、一番広い意味で言えば私たちはみな「使徒として召された」と言ってもいいのです。
2) キリスト・イエスの僕
パウロは自分の身分を使徒だけでなく「キリストイエスの僕」と表現しています。それは奴隷ということです。しかしそれは自分の意に反して強制的にそうさせられたのではありません。選ばれて、イエス様の前に立ち「あなたの僕にしてください、私はあなたに従います」と決断したのです。皆さん、「それなら私もおんなじだ」思いませんでしたか?そうなのです。私たちもまた救い主イエスの僕なのです。それは私のプライオリティーのトップはイエス様以外の何でもないということです。私たちはもうイエス様以外の誰の僕でもありません。夫の僕でも妻の僕でも社長の僕でもありません。お金の僕でも、名誉名声の僕でも、何かの趣味の僕でもないのです。
3)福音のために選び出されたもの
選び出されたのは、あなたが特別に優れているからでも聖い者であるからでもありません。ただ神様があなたを愛しておられるので、私と一緒に歩みましょうと声をかけてくださったのです。
さて、あなたはいったい何をするために選ばれ、任命されたのだと思いますか。これはとても大切なことです。ここにも公務員の人がいるのですが、決してその人のことをいっているのではありませんが、公務員は市民の僕、国民の僕として選ばれているのにそれを忘れているのか知らないのか、あまりにもやることがなく暇をつぶすためにどんなことをしているのか、時々そんな様子を隠し撮りされている写真が雑誌に登場し、税金泥棒(tax spender)と非難されます。私たちがこの「何のために」を忘れていたら、やはりなすべき仕事をしていない「恵み泥棒」(Grace spender)と言われてしまいます
「召されて」ということの説明でもふれましたが、それはただ会社員として、公務員として、親として、夫、妻として与えられた仕事をするためではありません。そうではなく、私達はみな例外なく「福音」のために選ばれているのです
福音という言葉は新約聖書にたくさん出てくる言葉です。キリスト教国ではない日本ではまだなじみのない言葉です。伝統的に「ふくいん」と呼ばれていますが、クリスチャンでなければ読めない人も結構いるはずです。むしろ英語の「ゴスペル」のほうが使われますが、でもそれは「ブラックゴスペルミュージック」という限られた意味で使われていますから、本当の意味を知っている人はもっと少ないでしょう。皆さんは大丈夫ですか?福音とはグッドニューズ・いいお知らせという意味です。お知らせ、ニュースは誰かに伝わらなければ、それがどんなに良い話でも全く意味がありません。ですから福音のためというのは「福音を伝えるため」ということです。私たちはそれぞれが今置かれている状況の中で、福音を伝えるために生かされているのです。
この「福音」がどれほど大切で素晴らしいものかということを説明するためにパウロが脱線した2節から5節までについて来週お話します。福音とは何か、どう伝えればよいのか、何のために伝えるのか、ということを良く理解していただけると思います。お楽しみに
メッセージのポイント
パウロは、人として地上を歩まれたイエス様には会っていない、第二世代のクリスチャンですが、福音が世界中に広がる最初の働きを神様に委ねられた偉大な指導者です。しかし偉大すぎて私たちの生き方の参考にはならないと考えるのは誤りです。パウロは神様に与えられた人生の目的に忠実に歩むことによってクリスチャンとして大きな働きを残しましたが、神様が人に与える人生の目的はたった一つしかありません。私たちは皆どのような働きをするにせよ、「召された者」として「地の塩・世の光となる」という究極の目的を与えられているのです。
話し合いのために
1)あなたは自分の人生の目的をどのように考えていましたか?
2)これからはどのように生きて生きたいと思いますか?