2004/11/21 メッセージノート 

私たちの希望・私たちの責任・私たちの力 

ローマの信徒への手紙1:8-17

今日のテキストは私たちに広い視野を与えてくれます。それはユアチャーチにもっと大きなヴィジョン、希望をもたらします。それは同時に私たちに重い責任が課せられているということでもあります。しかしその責任をはたす力もまた私たちに与えられています。ユアチャーチがいつのまにか閉されたOur Churchになってしまわないために大切なことです。まず8-12節を読んでみましょう。

A. 私たちの希望(8-12)

1)宣べ伝える(8-10)

まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。(8-10)

教会がその外側に目を向けるということはふたつのことを含んでいます。ひとつはまだ主を知らない人々に、といことであり、もうひとつはユアチャーチ以外の教会との協力ということです。ローマの教会はパウロが設立に係わった教会ではなく行ったことのない教会でした。彼のミニストリーの中心はユダヤ教のおよばない各地に教会を建てあげることでした。自分に直接関わりのない教会に対してもなすべきことがあると考えていました。例えばエルサレムの教会の貧しい信徒のために募金を募って届ける働きをしています。ローマの教会に対しては信仰的な面で力になることができると考えていました。ユアチャーチもパウロのスピリッツを受け継いでゆきたいと願い海外の働きのために献げてきました。神様はこれからのこととしてこの国の中の宣教の働きにも目を向けることを望んでおられます。私たちに何ができるでしょうか?11節と12節を読んでみましょう

2)分け与え力になる(11-12)

あなたがたにぜひ会いたいのは、"霊"の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。(11-12)

今朝、私たちは朋子さんを郷里の教会に送り出そうとしています。この国は小さい国ですが、何でも東京に集中してしまう傾向があり、教会も例外ではありません。都会の教会はいろいろな意味で地方の教会より恵まれています。たとえば、中高生が地元の教会で信仰を持ってメンバーとなっても進学や就職で都会に移り都会の教会のメンバーとなり地元へは帰らないことが多いのです。牧師が長期間、仕え続けるのも都会より困難で、その建物もあり、メンバーもいるのに牧師がいない教会が地方には多くあります。都市の教会は地方の教会から受けるだけではなく与える教会となる必要があります。メンバーを送り出すことは淋しいことですが、私たちの喜びでもあるのです。パウロが12節で言っているように、他の教会の力となろうとするときに、実は私たちもまたそこから励まされます。ですから何か一方的にしてあげるのではなく、それをすることによって私たちもまた大きな恵みをいただいているという感謝の気持ちが大切なのです。

B.私たちの責任(13-15)

次に13節から15節を読みます。

兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

1)伝える責任

宣べ伝えるということは単に私たちの希望であるだけでなく、私たちに課せられた責任でもあります。いちばん身近なところで言うなら、子供に信仰を伝えることは親に与えられた責任です。これから親になる人のほうが多いのですが、ぜひ注意深く聞いてください。子供は教会につれて来て礼拝や子供の教会に出席させて聖書の知識を与えてもクリスチャンになりません。親が口で教えてもダメです。親は背中で信仰を伝えます。親子に限らず誰かにイエス様を伝えるポイントは背中です。つまりあなた自身がイエス様に目を向け、全身をむけて真剣に仕えてゆこうとする姿勢が大切だということです。ある人に「ユアチャーチは気楽でいい教会ですね、日曜礼拝出席を厳しく守らなくてはいけない、というプレッシャーがなくて」と言われました。その人はもちろん心からほめてくださったのですが、私は教会のあり方を皆に間違って伝えているのではないかなと思いました。もちろん私は「何があっても日曜礼拝を命がけで守りなさい。」とは教えてきませんでした。それを人に押し付けようとするのは律法主義です。でも私は、それだからといって日曜礼拝は自分の都合で来ても来なくても同じですよ。と言ったことはないはずです。それどころか礼拝は生活の優先順位の一番だとお話してきました。礼拝を休んでもしなければならないことはそれほど多くはないはずです。仕事が日曜にある人のためにはぜひ別の日あるいは早朝や夜に礼拝の時間を作りたいと願っています。日曜日は無理でも、あるいは決まった曜日が無理であっても週に一度人々とともに捧げる礼拝は絶対必要です。それは個人的な礼拝で済ますわけにはいきません。私たちは神の言葉を糧に生きているのではありませんか?それを食べようとしないのは霊的な自殺行為です。パウロは私たちに伝える責任を教えていますが、自分自身の信仰の姿勢を厳しく見つめることなしには人に伝えることは出来ません。

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。(コリントI 9:24-27)

2)実りを得る責任

パウロは私たちがただ伝えているだけでは、その責任を果たしていることにはならない。と教えてくれます。これは私たちが一人一人として課せられているというより、教会に与えられている責任です。これまでも実りを得るためにいろいろなことをしてきました。うまくいかないと思えば思い切ってやめてしまったことも沢山あります。大切なことは努力をやめてしまわないことです。また現状に満足しないことです。神さまは私たちに期待をかけてこの新しいチャペルを与えてくださいました。施設の広さは2倍以上になりました。また新しい方を毎週のようにお迎えすることが出来ています。私たちはまだこの場所を十分に活用してはいないように思えます。神さまにもっとアイディアをいただけるように求めてください。私に何ができるでしょうかと祈ってください。私は時々運動不足を解消するために公園を早足で1時間ほど歩くことにしています。このとき実に様々なアイディアが浮かんでくるのです。神様からのものでないもののほとんどはやがて忘れてしまうのですが、いつまでも頭に引っかかっているものはやってみるわけです。やってみて失敗ならやめればいいのです。やってみなければ神様が下さったアイディアを私が没にしてしまうことになります。

C. 私たちの力(16-17)

私たち自身にはこの責任を果たす力はありません。しかし神様は二つの強い力を与えてくださっています。先ず第一福音自体に大きな力があります。先週福音とは何かと言うお話をしました。先週いらっしゃらなかった方のために、もう一度福音とは何かと言うことをお話しましょう。福音とは「イエスキリストがあなたの罪のため十字架の上でその命を捨て、私達の罪の身代わりとなってくださったので、それを信じてイエス様に従う者に、完全な赦しと、永遠の命を与えられるという、素晴らしいニューズ」という意味です。

1)福音の力(16)

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです

パウロが生涯、困難な宣教の歩みを続けることが出来たのは、とてもシンプルな確信に支えられていたからです。福音だけがあらゆる人にとって、人生を新しく変える力だという確信。この福音を受け取らなければ誰も幸せにはなれないという確信です。クリスチャンはこの喜びを人に伝えるために生かされているのです。私たち自身がこの力によって新しい命を与えられています。この喜びを誰かに伝えたいと思えないとしたら、あなた自身がこの大きな喜びをまだ十分に味わっていないのかもしれません。


2)信仰の力(17)

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

私たちが頼ることのできるもうひとつの力は「信仰の力」です。言い換えるなら、「神さまを信頼することから来る力」です。今日はふれませんが信仰についての最も良い説明はヘブライ人への手紙の11章です。天と地の支配者である神様は、目に見える方ではありません、やがて迎え入れられるという天国もどのようなところか知っている者はいません。しかしこの目に見えない方の約束を信じて生きる者には、もうこの地上で恐るべきものは何もありません。どんな恐れも私たちを倒すことは出来ません。究極の恐れ:死に打ち勝って復活されたイエス様が私たちの主なのです。福音は、主を信じるものもまた既に死に打ち勝ち永遠の命を与えられていると約束されているのです。

この与えられている力で私たちは生涯にわたって、希望を持ち続け、責任を果たし続けてゆくことができるのです

メッセージのポイント

神様は私たちに福音を伝えるという務めを与えましたが、その務めは漫然と果たすことができるものではありません。神様は私たちが務めを果たすことができるように、未来に向けてのビジョンを持つこと、責任意識を持つこと、十分な力が与えられていることを知ることを教えてくださっています。

話し合いのために

1)あなたが神様に対して果たすべき責任とは何ですか?

2)どのような力があなたの務めを全うさせてくれますか?