2004/11/28 メッセージノート 

私たちがクリスマスを待ち望む理由 ローマの信徒への手紙1:18-23

もうすぐクリスマスです。教会の伝統的なカレンダーでは今日から4回の日曜日をアドベントの聖日と呼ばれています。イエス様の誕生を待ち望む日曜日という意味です。日本でもこの季節になると夜きれいなイルミネーションの飾り付けをする家が増えてきました。光は闇の中で輝いて私たちに喜びを与えてくれます夜が暗ければ暗いほど光はうれしいものですね。闇夜を歩くには光が必要です。闇のような世界を歩くときには、心の光が必要です。2000年前のイスラエルの社会も闇の中で光を求めるように人生に光となる「救い主」を待ち望んでいました。どんな時代であっても世界を闇のように暗くしているものは同じです。聖書はそれを「罪」と呼びます。罪とは「神様から心が離れている」心の状態のことです。

A.神さまは何に対して怒っておられるのか?(18)

神さまは御自身の姿に似せて人を造られました。しかし人はその歴史の最初から神さまにつながっていることを喜ばずに勝手な道を歩み始めます。人が自分で選び取った「罪」は、神さまからいただいた良心を自分勝手な醜い心に変質させ、犯罪、いじめ、無視、暴力として世界中にはびこっています。神様はこの状態を決して喜んではおられません。そのまま見過ごしておられるつもりもないのです。18節を読んでみましょう

不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

1)神様に対する罪=不信心

不義、不信心と分けて書かれていますがこれは同じ「罪」の現れです。それはまず神さまに対する不信であり、それが罪の本質です。

2)人に対する罪=不義

罪はほかの人に向けられるとき、不義:正しくない行いとして現れます。誰でも社会がどうも変だ。もっと良いものにしなければと考えます。社会をよくしようとする働き、弱者を助ける働きもいろいろあります。けれどもこの第二のことだけを考え、この部分だけを良くしようとしてもそれは不可能なことです。なぜなら罪の本質は、神様から離れていることだからです。

B.誰でも知っているはずの神さまの性質(19-20)

社会が悪い事は知っている。何とかしようと様々な努力をしてみる。それなのに多くの人は、その原点である神様から離れているということに目を向けようとはしません。19-20節を読んでみましょう。

なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

1)自然をとおして (詩篇104編19-24)

自然に目を向けるとき誰の心にも一瞬神々しいものを感じ、思わず太陽や、山に向かって手を合わせたりします。でも本当はそれ自体が神々しいのではなくそれらをおつくりになった方をあがめるべきです詩篇104編にはこのような一節があります。

主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。 あなたが闇を置かれると夜になり/森の獣は皆、忍び出てくる。 若獅子は餌食を求めてほえ/神に食べ物を求める。 太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き/それぞれのねぐらにうずくまる。 人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。


2)良心をとおして (ローマの信徒への手紙7章19-25)

また私たちは私たちの心の中に神様の手がかりを見ることができます。同じローマの信徒への手紙の7章にはこんな一節があります。

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(19-25)

C.絶望的な現状(21-23)

1)なぜ分からなくなってしまったのか?

それなのにやはり人々は神様に眼を注ぎ続けようとはしません。何で人類がこんな状態になってしまっているのか?その理由が21節以下に書かれています

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

2)偶像礼拝の恐ろしさ

答えは偶像礼拝です。神様は自分の言うとおりには動いてはくれません。そこで人は神様に逆らい自分の都合に合ったものを拝むことを好みました。偶像礼拝とは「自分の欲望に従って生きる」ことにほかなりません。しかしそれでは、世界は争いによって滅びてしまいます。それは仏壇が家にあってはならないとか、供えられたものを食べないほうがよいということではなく、あなたの心が何を拝んでいるかの問題です。ですからクリスチャンであっても異教の宗教儀礼をどう避けるか気をつけていても、イエス様以上に何かがあなたのアイドルとなってしまっているという危険はあるのです。

ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。(列王記下5:17-19、参考聖句:1コリント8章)

3)絶望の中に訪れた希望<イエス・キリスト>

神様はこのように頑固な私たちの不信心・不義を怒りながらもそこから逃れる道を備えてくださいました。それがあの2000年前のクリスマスの出来事です。怒りに任せて滅ぼしても不思議ではない私たちにもう一度「人間らしく生きる」ことが出来るチャンスを与えてくださるためです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16:31)

クリスマスは今まで信じられなかったあなたが信じる決心をする良い機会です。 クリスマスは、いつの間には偶像礼拝に陥っていた人が神様に立ち返るチャンスです。来週からクリスマスイヴのキャンドルサーヴィスまで4回、クリスマスの意味をもう一度問い直すメッセージをしますから期待ください

メッセージのポイント

神さまは御自身が創造された人に対して、今も怒りや悲しみをもっておられます。それは私たちが神様に対して忠実に生きようとしないからです。神さまに対する不誠実は、人に対する正しくない行い(不義)として現れます。神さまを心から礼拝しないなら、あなたは偶像礼拝者です。偶像とは実際に人の手で作られた像に限られたものではありません。ある人にとってはお金が、また別の人にとっては仕事や趣味が、また人が偶像となってしまっています。偶像礼拝は私たちと神さまとの関係を損ない、罪に対する抵抗力を奪い、幸福から私たちを遠ざけます。けれども私たちにはこの絶望から抜け出す希望<イエス・キリスト>があるのです。

話し合いのヒント

1)なぜ私たちは良心にしたがって生きることが出来ないのでしょうか?

2)イエス様を信じる前、あなたの偶像は何でしたか?