2004/12/12 クリスマスメッセージ(2) ルカによる福音書1:39-56
あなたは「幸せな人」?
あなたはどんなときに幸せだと感じますか?その時その時に感じる満足感を小さな幸せと呼ぶことにしましょう「なんとなく憂鬱なときに空を見上げたら虹が見えたとき」「昨日欲しかったけれど買わなかったものが、今日見たら20%OFFになっていたとき」生活の中で小さな幸せを感じることは素敵なことですが、それはずっと続く幸福感ではありません。今日お話したいのは「幸せな人」「幸せな生涯を送る人」についてです。ある人は「幸せな生涯かどうかなんて死ぬ時にならなければ分からない」と言います。今日のメッセージを準備しているときに、クリスチャンではない日本人は幸せについてどう考えているか知りたくてインターネットで検索してみました。ありました、ありました、結構な数の「しあわせホームページ」、そのひとつの「幸せな人生」の定義を紹介しましょう「日々小さな幸せを感じ、月に一度くらい中くらいの幸せを感じ、年に一度位大きな幸せを感じる生涯」だそうです。あなたはどう思いますか?それでは前半の47節までを読んで見ましょう。
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 そこで、マリアは言った。 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。(39-47)
A. 幸せな人のライフスタイル(主の言を自分の身に引き受ける)(39-47)
45節でエリザベトはマリアを幸いな方 How happy you are と言いましたが、他の訳では「祝福された方」 Blessed are you となっています。原語でも祝福されたという意味の強い言葉です。
ここにクリスチャンの幸福観と神を信じない人の幸福観の違いがくっきりと現れます。マリアは単にハッピーな人なのではなく、祝福された人なのです。
神様を信じない人にとっては幸福とは「何かを手に入れる」ことによって得られる「満足感」のことです。虹はやがて消えてしまいます。最新流行のファッションは一年で時代遅れになります。20%OFFを買って喜んだ次の日に50%OFFになっているのを見て自分はなんて不幸な人間なんだろうと思うわけです。手に入れたものは例外なくやがて色あせたり、なくなったりしてしまいます。地位や名誉や人間関係も同じです。
聖書は「幸せ」が成功や偶然によって得られるものではなく「神様の祝福」によって得られる満足であることを教えてくれます。つまりどんなに深刻な問題が起きてきても不幸な出来事があっても、神様の祝福の中にとどまるなら「幸せな人」でいられるのです。私たちの人生は、死ぬ時になって、幸せの合計から不幸の合計を引いて「ああいい人生でした」あるいは「生まれてこなければ良かった」とはじめてそこで結果が出るようなものではありません。多くの人は今幸せであっても、何か突然の出来事で「自分はなんて不幸せな人間なんだろう」と思ってしまいます。でもあなたが主に信頼して歩んでいるなら、何があろうとなかろうと「私は幸せ者です、祝福されている者です」言うことができるのです。
1)理解できなくても従う
マリアは自分の理解を超えて起きた出来事に対しても神様を信頼して、イエス様を生み育てる決意をしました。ここに祝福を失わない第一のポイントがあります。といっても神様に従うということは、そう簡単なことではありません。それは牧師の考えに盲従することでもありませんし、自分の考えを信じることでもありません。しかし、神様は牧師のメッセージを通して、自分の祈りを通して語られるのです。そこで私たちは語られたことを吟味し、祈り求め、行動し、また祈り、軌道を修正し、また歩き出すようにして、自分たちに与えられている計画に用いられてゆくのです。
2)いつでも主をあがめる
第二のポイントは、主をあがめること、礼拝することが日々の生活の根底にあるということです。日曜日の朝に限らず、主に歌い、祈り、願い、感謝していますか?主を褒め称えていますか?恐ろしいことは、これらのことは手を抜いても、日常生活は一見変わらずに進んでゆくということです。現に主を知らない人々は、日々の小さな幸せに満足し、神様を求めません。いろいろなことに一喜一憂しながら、大きな問題が幸福感を押しつぶしてしまうまで気が付かないのです。相手を甘く見たボクサーがガードを下げて戦っているようなものです。人生を甘く見ていれば、いつか悪魔のラッキーパンチをもらうことになってしまいます。(エフェソ6:10-20)
3)いつでも神様を喜ぶ
三番目のポイントです。先週の説教で、天使がマリアに言った挨拶の言葉には「喜びなさい」というもともとの意味があるとお話しました。私たちは良いこと、良いものを喜ぶわけですが、皆さんは知っていますか。すべての良いものはどこから来るのでしょうか?そうです神様から来るのです。神様を喜ぶとは、感謝することです。
神様がともにいてくださること、良いものを与えてくださること、悪いものを取り去ってくださることに感謝することです。神様の恵みが地球に空気が存在するように当たり前のことになってしまう、そういう危険は誰にでもあります。皆さんに教える者として恥ずかしいのですが、喜ぶこと、感謝することを忘れ、喜びもなく不平、不満を言っている、幸せな人じゃなくなっている自分を発見することが時々あります。ですから、恵みを一つ一つ意識して、喜び感謝しましょう
B. 神のご性質(幸せな人は知っている)(48-56)
それでは後半の48-56節を読んでみましょう。ここになぜ、マリアが置かれた状態にもかかわらず、主をあがめ、喜び、幸せでいられたかの理由が記されています。一言で言えば、それは神様の御性質を知っていたからなのです。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。(48-50)
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ 、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(51-53)
その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。(54-56)
1)小さな者に目を向けられる方
それは先ず神様が人間社会の価値観にとらわれずに、性別や、人種、身分の高い者ではなく、むしろ世の中では軽蔑されたり、無視されたり、軽く扱われる者に目を留めてくださる方だと言う確信です。無知でも、無力でも、地位がなくても、神様を信じる人は「自分は無価値だ」「自分は弱い」と言う資格はありません。神様はあなたを「宝」として大切にされ、あなたを通して世界に力を示されるのですから
2)思い上がる者を打ち砕く方
世の中には主の喜ばれない、利己的な考えで人を支配し権力を振るう人々がいます。不正な富を蓄えている人たちがいます。 私たちはキリストの体の一部として正義を行う義務も権利もありますが、それは神に代わって何でもすることも許されているというわけではありません。復讐せずに神様に任せることを命じられています。私たちには限界もあります。どんなに悪いと分かっていても自分ではどうすることも出来ない相手もいるのです。しかし神様はその義に反するものを決して見過ごしにはなさいません。
3)弱い者を強くする方
その一方で神様は身分の低い者を高く上げ 、飢えた人を良い物で満たして下さる方です。小さなものに目を向けられる方だと言いましたが、それは具体的に貧困や病、飢餓から救い出され、力を与えてくださるということです。神様は実際にその手足を使ってこれらの人々を助けるのです、つまりキリストの体の一部である私たちを使って、これらの人々に手を差し伸べるのです。
4)憐れみを忘れない方
1)から3)で取り上げたことはひとえに50節と54節に記されている主の憐れみという、御性質から来るものです。そしてそれはその時その時、現されただけではなく。憐れみを忘れない、つまり将来においてもあなたを見放さず憐れみ続けてくださる方なのです。
メッセージのポイント
神様はマリアを主の母として選びましたが、それは彼女が特別に優れているとか、生れた家柄が良いからではありません。ただ神様が一方的に彼女を選ばれ、その特別な役割を担われたのです。この役割を担ったのはマリア一人ですが、あなたもまた神様の計画の一部を担ってその人にしか出来ない特別な働きをしているのです。あなたがそれを自覚しているなら、あなたは「人生に揺るぐことのない確かな目的を持っている人」「幸せな人」です。幸せな人のライフスタイルを身に着け、神様がどのような方であるかを知って「幸せな人」になりましょう。
話し合いのためのヒント
1)マリアが幸せな人なのはなぜですか?
2)神様はどんな性質の方なのか?みんなで思いつくままに表現してみましょう